ヨーロッパ旅行 (その2)

スペイン・ポルトガル編
スペイン国旗
ポルトガル国旗

2008年(平成20年)

 第4日目 5月11日(日)

スペイン・ポルトガルの旅

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◎ 本 日 の 予 定
 場 所  概 要
マドリッド 朝食 ホテル:プラガのビュッフェ
マドリッド観光(約4時間) プラド美術館(ゴヤ、エル・グレコ、ベラスケスなど)
国立ソフィア王妃芸術センター(ピカソ、ミロ、ダリ)
スペイン広場
王宮
昼食 レストランで中華料理
トレドへ移動 トレドへ、約70Km(約1時間15分)
トレド 【世界遺産】トレド観光(約2時間) カテドラル
サント・トメ教会(グレコの絵)
マドリッドへ戻る マドリッドへ約70Km(約1時間15分)
マドリッド 夕食 レストランにて、シーフード・パエリア
宿泊ホテル プラガに連泊

 

 

◎ マドリッド   豆 知 識

マドリッド(Madrid マドリードとも )はスペインの首都。人口は約313万人で、マドリード首都圏(Madrid Metropolitan Area)の人口は580万人に上る。EUの都市では、ロンドン、ベルリンに次いで人口が多い都市です。また、欧州の首都の中では、標高650mと最も標高が高い位置にあります。

スペインがあるイベリア半島のほぼ中央に位置しています。スペインの首都であり、政治、経済、文化の中心であるとともに、新旧コントラストのある観光都市です。石畳の一つ一つから人々の歴史と生活のぬくもりが伝わってくる旧市街がある一方で、高層ビルが立ち並ぶ「カスティーヤーナ大通りのマンハッタン」と呼ばれる近代的な新市街があります。9世紀、スペインの歴史に大きな影響を及ぼしたアラブ人は現在のマドリッド王宮の場所に砦を築き、これがマヘリット(アラビア語で「砦」)マドリッド の始まりとされています。キリスト教徒軍によるレコンキスタ(国土回復戦争)最中の1083年、カスティーヤ王アルフォンソ6世はその砦を占領し、アラブ本拠地のトレドへの攻略に備えたのでした。その後1561年、カルロス5世を継いだフェリペ2世は、宮廷をトレドからマドリッドへ移し、以来スペインの首都として今日に至っています。

一番古いマドリッドはアラブの香りがほのかに漂い、サン・ニコラス・デ・ロス・セルビタス教会やサン・ペドロ・エル・ビエホ教会、クルス・ベルデ広場、アラミーヨ広場などが代表的なものとして挙げられます。

2004年3月11日、マドリッド市内のアトーチャなど3つの駅でイスラム原理主義テロリストによる列車爆破テロが発生し、200人以上が死亡し、1,600人以上が負傷した。この事件は、スペイン兵のイラク派遣に対するテロで、3日後の総選挙に大きな影響を与えた。3日後の総選挙で逆転勝利を収めてスペインの政権に就いた社会労働党は、公約通りイラクに派遣していた軍隊の引き揚げを開始した。

マドリッドは2012年のオリンピックの開催地として立候補したがロンドンに敗れた。2016年のオリンピックの開催地にも立候補し、東京と並んで第一次候補を通過している。

 

訪  問  地 詳    細
ホテル:ブラガ

7:00
起床、朝食

 

今日の予定は、マドリッド観光とそのあと、トレドへ行って、またマドリッドへ戻ってくるので、スーツケースの荷造りが不要なため、朝は起きれば、そのまま朝食です。

*というわけで、ホテル:プラガのビュッフェです。
  ベーコン、ハム、ソーセージなどお決まりのほかに、ゆで卵がありましたので、2個も食べてしまった。

プラド美術館

8:40
出発

8:50

天気は曇りです。完全には晴れていませんが、雨が降らなければ、よしとしましょう。でも傘はいつも持っています。
気温は13度と少しばかり涼しい。長袖シャツが必要です。

プラド美術館 (Museo del Prado) に到着です。

  

9:30
入館

開館は、9時からで、現地のガイドさんの補助員が切符を買ってくれる間、入口に並びます。
入場料は6ユーロ(約1,000円)です。

他にも観光客が多くて、入場まで30分ほどまたされます。

この、ブラド美術館の向かい側に、2004年に日本の皇太子が、スペインの皇太子の結婚式に招かれて、雅子妃は来ず一人で泊ったリッツ・ホテルがありました。

 

プラド美術館内は、カメラ・ビデオの撮影は禁止です。

ウンチク:15世紀以来の歴代のスペイン王家のコレクションを展示する美術館である。1819年に「王立美術館」として開館。1868年の革命後「プラド美術館」と改称された。現在文化省所管の国立美術館。ベラスケス、ゴヤなどのスペイン絵画が質量ともに充実していることは言うまでもないが、フランドル、イタリアなどの外国絵画も充実している。

*写真は、ベラスケス(Velazquez)の作品 「 フェリペ4世一家、またはラス・メニーナス(女官たち)」 (イメージです)
  見ている人の視線で描かれています。(中央に鏡があり見ている人が写っている)

  *ゴヤ(Goya)の「着衣のマハ」
 

*ゴヤ(Goya)の「裸のマハ」

 は、残念ながら、特別展示で、ここにはなく、見られませんでした。(本当に残念!)

10:30
退館

*ルーベンス(Rubens)「三美神」

 

 など、主な作品がありますが、当然、全部はこの時間内では見られません。

 

 またの機会に、ゆっくりと見ましょう。

ギフト・ショップ
11時ごろ

*ギフト・ショップにて

 阪急交通社指定のギフト・ショップがプラド美術館の向かいリッツ・ホテルの隣にあり寄りました。
 私は買い物には興味がありませんが、2004年5月のスペインの皇太子の結婚式に、日本の皇太子がきて、来られなかった雅子妃のためにこのギフト・ショップで買い物をされたようです。

 それは一流ブランド品(ロエベとか)ではなく、このバッグだったそうです。
 値段は? ¥3万もしないものですが、材質は一流品と同じだそうです。

 

列車爆破テロ
 

*次は、国立ソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofia)へ行きましょう。

アトーチャ(Atocha)駅
  バスに乗っていると距離感がなくなるのですが、地図でも分かるように、プラド美術館と国立ソフィア王妃芸術センターは共にアトーチャ(Atocha)駅の側にあります。そんなに離れていません。

 

 

*このアトーチャ駅ではテロによる列車爆破事件がありました。写真は当時の様子とその内容です。

2004年3月11日午前7時30分(日本時間午後3時30分)頃、スペインの首都マドリード中心部の三つの駅で四つの列車が10分の間に次々と爆弾が破裂、車両は大破した。通勤通学客でのラッシュ時間を狙った卑劣なテロで、これまでに200人の死亡が確認され、約1500人が重軽傷を負った。爆弾は、バックバッグに入れた工事現場などで使用されるダイナマイトを、携帯電話で起爆させる遠隔起動型と見られている。アセベス内相によると、三駅で四つの車両内や駅近くの路上など、計13ヶ所に爆弾が仕掛けられていた模様。そのうち10発が爆発し、不発だった3発は治安当局が処理したと発表。爆発はマドリード中心部にあるアトーチャ駅構内の無人の列車で始まった。その直後、構内に到着しつつあった別の乗客を満載した列車内3カ所で爆発したという。スペインでは14日に総選挙の投票を控えているが、主要政党は選挙運動の中断を表明した。政府は11日から3日間を服喪期間とすると発表し、全国民にテロ組織との闘いを呼びかけた。この事件を受けて、世界中の市場で株価大幅下落となった。

 さすがに、今は復旧されていますが、大きな事件でした。

国立ソフィア王妃芸術センター
11:30
入館

*国立ソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofia)


ここには、パブロ・ピカソやサルバドール・ダリ、ジョアン・ミロなどの20世紀の近現代美術を中心に展示品が豊富。ピカソの代表作『ゲルニカ』はフランコ政権崩壊後スペインに「里帰り」し、プラド美術館別館からここに移され展示されている。
絵画、彫刻、映画、写真など様々な分野の現代スペイン美術作品を所蔵する美術館。代表作品は、世界的に注目を浴びているピカソの「ゲルニカ」。

かつての国王カルロス3世が建築家サバティーニに建てさせた病院を美術館にしたもの。

  *入館料は、3.01ユーロ(約500円)です。 

元々は、病院だったのを改装して、美術館にしています。
 後から付けられた、ガラスのエレベーター(階数がわかりにくい)で上に向かいます。
  (地上4階建てで、4階と2階が展示場になっているようだ)

*ここでも、写真撮影は禁止です

  ここの、見所は、なんといっても、これ。
 ピカソ (Pablo Picasso)の ゲルニカ(Guernica)です。 1937年の作品で、大きい。縦x横、 3.493m x 7.766mです。

 ゲルニカとは、フランスに近いスペイン北部の町名です。

 *これでは、細部まで分からない? そこまで言うなら、ピカソ (Pablo Picasso)の ゲルニカ(Guernica)。大判も作りました。

 

*ピカソとゲルニカの関係

スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがスペインのフランコ将軍から依頼されたドイツ軍により空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をきっかけに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人(作品左側)、狂ったようにいななく馬(作品中央)などが強い印象を与える縦3.5mx横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにドイツ軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われたとき、「いや、あなたたちだ」と答えた。

スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、スペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定により〈スペイン国民〉に返された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。

*空爆という無差別殺戮
  多くの人々が犠牲になる戦争でも、一応ルールがあり、非戦闘員である普通の人たちを殺戮することは、禁止されています。
  この、ドイツ軍が行った無差別の非戦闘員を殺戮する行為は、非難される行為です。
  しかし、飛行機による大量殺戮行為は、その後、アメリカ軍によって日本でも行われています。
  第2次世界大戦のアメリカ爆撃機による東京を始めとする焼夷弾による空襲がそれです。
  また、アメリカ軍の広島・長崎における原爆による大量殺人はまさにこの行為です。

*大量無差別殺戮を戦争犯罪と描いた映画;「明日への遺言」もあります。

 

*ダリ (Salvador Dali) の El gran masturbador (訳はしませんけど、英語のできる人は少し分かる?)

 ダリの作品になると、もう単なる好き嫌いの世界です。シュルレアリスム(超現実)の芸術家といってもネー。

 

*ミロ (Joan Miro) の Caracol,mujer、flor、 estrella

 

 何を言いたいのか?

 分かる人は分かる? でも、大多数はウーンかな?

 それが、シュルです。

 
12:10
 退館

*次の目的地、ドン・キホーテ(日本の安売屋ではありません。念のため)の像がある「スペイン広場」に向かいます。

 マドリッドの旧市街には、古い建物がかなり残っています。
  これは、郵便局?

 
 

*それでは、ついでにスペインの郵便ポストです。

  日本と違って、黄色に塗られています。
  ラッパのマークの上に王冠が乗っています。
  (そして、緑色はいたづら書きです)

*余分な知識
  ヨーロッパ各国では、郵便は駅馬車によって運ばれていたため、到着を知らせるラッパが郵便のマークになっている。

スペイン広場
12:10

スペイン広場(Plaza de Espanaです。

 ここには、スペインが産んだ偉大なる作家:セルバンテスの没後300年を記念して建てられた、セルバンテスの像と作品の主人公ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサの像があります。

*天候は、まだ曇ってはいますが、雨は降っていません。

  他には、見所もないので、次に行きましょう。

王宮
12:40

王宮(Palacio Real) へやってきました。

 実に、左右に広い宮殿です。フェリペ5世の頃(1740年代)建てられて、部屋数は何と、2,800室もある。
 建物としては、フランスのヴェルサイユ宮殿よりも大きい。(ヴェルサイユ宮殿には、広い庭もついています。)

 現在は、迎賓館として使用されている。

 

*内部は公開されていない(後日談:一部は公開されているようです)けど、美術・工芸品はかなりあります。

 ここは、謁見の間 とか。

 フランスのヴェルサイユ宮殿のように、一般公開してくれると、マドリッド一の観光名所になるのに。

 

*王宮の前には、オペラ座もあり、人は多く出ていた。

 少しばかり空が晴れてきました。よかった!

 

昼食
13時

*昼食です。

 今日は、中華レストランです。

 献立は、マーボ豆腐、酢豚、チャーハンなどでした。味は?
 良かったですよ。また、量も豊富で、余っていました。

 中華は、あたり外れが少ないためか、阪急交通社では、前回のロンドンでも出ました。

 

  デザートはスイカです。
トレドへ
13:45
出発

*では、次の観光地、トレドへ出発です。

  トレドは、マドリッドからやや南の方向で、距離は約70Km,時間は1時間15分程度のバスの旅です。

 

整備された高速道路の左右には、丘陵地帯広がっています。

小麦の畑に交じって、ひなげし(アマポーラ=Amapola、英語ならポピー=Poppy)の赤い花が、ところどころに咲いています。
*「ひなげしの花」なら、「おっかのうえ」のアグネス・チャンの歌を思い出します。
*「アマポーラ」が「ひなげし」とはしりませんでした。この曲も有名な曲です。

*スペインの高速道路
  バルセロナではバスの運転手が、利用料金を払っていたのですが、マドリッドやトレドでは料金所がありません。
  なんと、高速道路には、民営と国営があり、民営は有料で、国営は無料だそうです。

14時ごろ

*トイレ休憩のサービス・インの入口に、こんな置物がありました。

  

トイレの入口の男女のマークも面白い。人形も大分スペイン!って感じになってきましたよ。

トレド

◎ トレド豆知識 − 観光の前に−

トレド(Toledo)はスペイン中央部の都市。カスティーリャ・ラ・マンチャ州の州都で、トレド県(人口約60万人)の県都である。マドリッドから南に71kmの距離で、タホ川に面する。人口は約7万7千人。

かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、スペインで一番長いタホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。また、スペインを代表する画家エル・グレコが活躍した町としても有名。

711年、ウマイヤ朝の指揮官ターリク・ブン・ジヤードによって征服され、イスラム支配下に入った。後ウマイヤ朝が崩壊すると、タイファ諸国の1つトレド王国の領域となった。1085年、カスティーリャ王国による長期の包囲ののちトレドは降伏し、アルフォンソ6世は5月26日にトレドに入城した。そののちもカスティーリャ王国はムラービト朝の攻撃からトレドを守り抜いたため、トレド征服はレコンキスタの節目の1つとなっている。

今でもスペイン、カトリックの中心を占める巨大なカテドラル(大聖堂)がある。

12世紀から13世紀、「トレドの翻訳グループ」と呼ばれる学者が活躍した。イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒の共同作業によって、古代ギリシア・ローマの哲学・神学・科学の文献がアラビア語からラテン語に翻訳された。この成果が中世西ヨーロッパの12世紀ルネサンスに大きな刺激を与えた。

トレドは鉄製品、特に剣の生産で有名となり、現在でもナイフなど鉄器具の製造の中心地である。トレド征服以降、カスティーリャ王国やスペイン王国は定まった首都を持たず、トレドは一時的な宮廷の所在地であった。1561年、フェリペ2世がトレドからマドリッドに宮廷を移すと、マドリッドが首都として確定し、トレドはゆるやかに衰退を始め、現在に至っている。

1577年ごろギリシア人の画家エル・グレコがトレドに定住し、1614年に没するまで数々の傑作を残した。19世紀以降にエル・グレコは重要な画家として再発見され、現在ではトレドとエル・グレコは結び付けられて語られるようになった。

トレド
15時頃

【世界遺産】トレド(Toledo)観光の開始です。

どうやら、天気も小雨から、少し青空が見えるようになりました。

タホ川という、スペイン一長い川(これはこれから向かう、ポルトガルの首都リスボンまで流れている)の側に古い首都、トレドはあります。

 

現在も、スペイン、カトリック教の中心であるカテドラル(大聖堂)は大きくて、立派なゴシック建築です。

内部は写真が撮れませんが、大変に広くて、聖書を題材にしたキリスト関係の彫刻は細かく、またステンドグラスなどもきれいです。

*イタリアのローマ聖堂より、すごい!?
でも、スペインではセビーリャのカテドラルの方がまだ大きいようだ。

 

古い街で、砦も兼ねていますから、当然、路も狭くて、また、また迷路です。
(トレドでは、雨は降ったり止んだりでした。)

 

迷路に懲りた人は、写真も撮りながら、必死にガイドさんの後ろについたりで、大変です。




*写真はクッキーを作っている尼さんたちです。

 

*次のトレドの見所は、サント・トメ教会 (Iglesia de Santo Tome)です。

 トメとは、日本語にすると、親しみやすくなりますが、英語読みでは、トマース(Thomas)です。

 

この教会が有名なのは、 エル・グレコ (El Greco)の『オルガス伯爵の埋葬 (Entierro del conde de Orgaz)』の絵があるからです。

 

エル・グレコ (El Greco)の傑作『オルガス伯爵の埋葬 (Entierro del conde de Orgaz)』です。(460cm×360cm Oil on canvas)

この作品は1588年に完成し、下部には、聖アウグスティヌスと聖ステファンが地上に下りて故オルガス伯爵を埋葬している様子、上部には、雲上のキリストと聖母マリアに伯爵の魂が天使によって捧げられている場面が描かれている。

父なる神の威光を受け光り輝くイエスの周りには、聖母マリアや洗礼者聖ヨハネを始めとする諸聖人の他、幾多の天使が描かれているほか、サント・トメ聖堂の司祭や当時の知識人や有力者に囲まれながら埋葬されるオルガス伯の周囲にはエル・グレコ自身の姿や画家の息子であるホルヘ・マヌエルの姿も描かれている。

 写真撮影は、禁止でこれはイメージです。
 これでは、小さくてわからない? そんな人用に、エル・グレコ(El Greco)オルガス伯爵の埋葬

*大きな絵です。その中央部には、キリストの足元で、オルガス伯爵の魂が薄い白い色で朧気に描かれています。
  最後の審判を巧みに表していました。

  *因みに、エル・グレコ (El Greco, 1541年 - 1614年4月7日)は、現ギリシャ領のクレタ島出身の画家。本名はドメニコス・テオトコプーロスで、一般に知られるエル・グレコの名はスペイン語で「ギリシャ人」を意味する通称である。

当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島で初めイコンを学び、のちにイタリアのヴェネツィア、ローマに渡ってティツィアーノに師事し、ヴェネツィア派絵画を学んだ。1577年、36歳でスペインのトレドに渡り、没するまでスペインで宮廷画家として活躍した。

16:45

*トレド旧市街から出ます。

 トレドの上方から見物を開始して、下方の橋を渡ります。

*古い建物は維持が大変です。
  壊れたブロックを時代色を残して修復しています。

ギフト・ショップ
 

*トレドの名産 −象嵌(ぞうがん)細工−

 トレドは、ナイフや刀などの鉄製品でも有名ですが、この細かな象嵌細工も名産品です。

 

 

ネクタイピンやカフスボタン、ペンダントなどに、小さな模様が埋め込まれています。

 

  勿論、大きな飾り物もありますよ。
マドリッド

17時過
戻りへ

18時
ホテル着

20時頃
市街

*トレドから、マドリッドへ戻り。

  朝来た道を、引き返し、夕食です。
  トレドからマドリッドの距離は約70Km,所要時間は1時間15分程度。

 マドリッドへ戻ってきました。
 今夜の夕食は、朝行った王宮やオペラ座があるところのレストランでです。

 今日は日曜日で、夜の8時ですが、このように明るく、オペラ座付近では人が一杯出ています。

 天気は晴れになり、晴れると長袖では、少し暑い感じになります。

夕食
20時過ぎ

*夕食

 まず、野菜を煮込んだスープ。これはいける。

 

*メインは、小海老やイカなどが入った「シーフード・パエリア」です。

*パエリア料理ってなーに?
  食べれば、分かりますが、食べたことがない人に説明です。
  日本的にいうと、芯のある米のパサパサした焼き飯。
  肉や魚介類、野菜などを平鍋でお米と一緒に炊き込んでいます。
  肝心なのは、サフランを使用することです。でもサフランは超高くて安いパエリアでは入っていないようです。

*それでは、味は?
  芯のある米を好きな人なら好むかも。
  私なら...注文しません。

*サフランは入っていた?
  サフランの味を私は知りませんので、分かりません。

 

泊り
21時過ぎ

*ホテル:プラガ 連泊(昨日の夜と同じ)

このホテルは、部屋も広くてまあまあです。

2008年 5月11日は終わりです。

◎旅行記のまとめが大変だ!
 今日(6月9日)で、スペイン・ポルトガル編の4日目をまとめ終えたが、現地マドリッドの地図や、写真撮影が出来なかったプラド美術館、国立ソフィア王妃芸術センター、グレコの作品などを載せるのに時間がかかった。
 特に観光用の地図がなかなかなくて、スペイン語や英語でネットを検索しまくったが、ドウモこちらのイメージに合わない。

◎明日の天気は?
 どうやら、夕方から晴れてきたので、よさそうです。
 美術館やカテドラルなら天候には左右されませんが、街の散策では、雨は写真写りも悪くてダメです。

◎ピカソのゲルニカ −1−
 こんなに大きな作品とは思っていませんでした。
 民衆の苦しみが、抽象的ですがよく表現されています。
 罪のない一般の民衆を戦争の犠牲にすることは、許されない行為です。

◎ピカソのゲルニカ −2−
 この作品の製作過程を当時のピカソの愛人?が写した写真、8枚も展示されています。
 それによると、左側の牛(?)も当初は、尻尾まで全体が描かれていて、製作に苦労した様子がわかります。

◎シュルレアリスム(超現実主義)はどうでもいい。
 ゆがんだ時計までは表現として分かるが、点や線をくっつけたようなのは、作品ではないと思う。

◎サッカーを忘れていませんか?
 そうですね。マドリッドは「レアル・マドリード」の本拠地でしたね。
 この日(11日)は、日曜日で試合がありました。
 夕食の行き・帰りに競技場の側を通りましたが、幟を持った人や、ユニホームを着た人が一杯集まっていました。
 その人たちのせいで、交通渋滞が起きていました。

◎マドリッドの駐車場事情
 これは、マドリッドだけに限らず、ヨーロッパの市街全体でいえることですが、街並みが古いために自宅に駐車場を持つ建物は殆どありません。
 たいてい路上駐車です。また、それが許されています。

◎2列の路上駐車もある!
 駐車場がないのに、今回のサッカー競技場でも車で来る人はいるわけで、路上駐車の限度を超えて自動車を停めています。
 交差点の曲がり角や、ひどいのは、2列駐車をしていて、互いの車がすれ違えず、相手の通過をまつ事態もありました。

◎天正の少年使節団
 日本の戦国時代:織田信長活躍(1580年代)の終わりごろ、九州のキリシタン大名たちにより日本からローマ教皇に謁見するために、少年4名を中心とした使節団が、ヨーロッパに派遣されています。
 彼らは、長崎から、なんと3年もかかって、インド、アフリカの喜望峰をまわり、まずポルトガルに上陸し、それからスペイン・カトリックの総本山であるトレドの教会も訪れ街に泊っています。
 ポルトガルでも、スペインでも大変に歓待されています。ちょうどそのときトレドにいたエル・グレコも、もしかしたら彼らに会っているかも。

 日本から派遣された当時14歳ぐらいの4少年たちは、3年間の船旅の間に語学を勉強し、ローマ法王と接見した後、ポルトガルのリスポンから、今度は何と4年もかかって、1590年に日本に帰ってきます。
 こんなに大変な旅でしたが、帰国した日本では、秀吉によってキリスト教は迫害されており、派遣された4人は殉教したり、棄教させられたりと苦労の一生を送っています。

  天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、長崎からローマへ派遣された4名の少年(伊東マンショ(正使) 大友宗麟の名代。 千々石ミゲル(正使) 大村純忠の名代。 中浦ジュリアン(副使) 。原マルティノ(副使) を中心とした使節団。
イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた(これをキリシタン版という)。

*写真は、4少年たちを報じた、スペインの記事。

 

 

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