岡山から山口への旅 〜列車・路線バス利用〜 

期間: 2024年(令和6年) 11月13日(水) 〜 11月15日(金) 

(2泊3日の列車・路線バスの旅)

第2日目: 2024年(令和6年) 11月14日(木) 

山口の 湯田温泉から秋芳洞そして、萩へ

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 日   程   表    2024年11月14日(木)
11月 14日
(木)
●湯田温泉から @秋芳洞 A萩 へ
@湯田温泉から秋芳洞へ (バス)
起床・朝食 07:00 ホテル・ルートイン山口 湯田温泉
・バイキング形式
NTT山口前 発 08:48  ホテル・ルートイン山口 湯田温泉の前から出ている (約1時間)
秋芳洞入口 着  09:40
秋芳洞観光 09:50〜11:50 秋芳洞の観光 (約2時間)

百枚皿
千町田
黄金柱
3億年のタイム・トンネル
A秋芳洞から萩へ (バス)
秋芳洞 発 11:50  (約1時間)
萩バスセンター 着 12:50
萩散策 12:50〜17:00 
昼食、散策 (約4時間)

明倫館
高杉晋作誕生地
菊屋家住宅
北の総門
菊ケ浜
宿 着 17:00 萩の御厨(みくりや)・高大(たかだい) 
夕食 18:30 夕食

  レストラン・タカダイで
萩 宿泊 New
 萩の御厨(みくりや)・高大(たかだい

訪  問  地 詳    細
ホテル・ルートイン山口 湯田温泉 7時頃

*起床 ホテル・ルートイン山口 湯田温泉

 住所:〒753-0076 山口県山口市泉都町9-1   TEL:050-5576-8001

 昨夜(2024年11月13日)から泊っているホテル・ルートイン山口 湯田温泉 の 5階にある514号室です。 いつもと同じように、7時頃に起きました。
 514号室から窓の外は、こんな感じです。
  
 早速、1階のレストランで朝食です。

     

朝食 7時頃 朝食 ホテル・ルートイン山口 湯田温泉

 ◎ホテル・ルートイン山口 湯田温泉のうたい文句の1つが、
  和洋食の無料バイキング朝食
  30品目以上の和洋バイキング朝食を無料でお楽しみいただけます。
  ごはん派、パン派、朝は軽め派、しっかり派など、それぞれのスタイルに合わせて「メニューは常時30品目以上」をご用意。
  その土地ならではの食材や、郷土料理などのご当地メニューもあります。

ホテル・ルートイン山口
朝食
7時頃 朝食 ホテル・ルートイン山口 湯田温泉のバイキング

 ということで、いろいろなメニューのある中から、ハムやおかゆ、鶏の唐揚げなどを取って、朝からしっかり食べました。

 味は・・・ いいです。

 ●ホテル・ルートイン山口 湯田温泉 の料金
  ビジネス・タイプで 一人1泊朝食付き ¥8,550 です。
  リーズナブルな料金だと思います。

 多くのビジネスマンや観光バスで来た外国の旅行者も泊っていました。
ホテル・ルートイン山口
08:40頃 *朝のホテル・ルートイン山口 湯田温泉の前の道路

 かなり交通量があります。

 丁度、泊まったホテル・ルートイン山口 湯田温泉の前に秋芳洞行きのバス停:NTT山口前があり、これは、便利でした。
 
湯田温泉〜秋芳洞へ 08:48 発 ◎利用するのは、JRバス中国で 路線名は防長線で始発は山口駅で秋吉行きです。

*NTT山口前 発 秋吉行き (約1時間) ¥1.170

 ここから、寂しい田舎道を1時間ほど走って、目的地の秋芳洞へ行きます。

 このバスには3,4人乗っていましたが、途中で他の人は殆ど降りてしまい、終点の秋芳洞まで乗っていたのは、私の他1名だけでした。

 沿道に見える多くの人家の屋根瓦が茶色に輝いているのが、関東の黒色の屋根瓦と異なっています。
 
 長いトンネルもあります。森が深い。
 地名も長門大石、薬王寺、長門高山など出てきます。

  中国道の側も走ります。

 11月というのに、暖冬のせいか、まだ紅葉はありません。
バス時刻表   *バスの時刻表 秋芳洞行き

 08:48 の次は、10:18 で、その次は、13:18 です。

 本数が少ないので、計画を立てる際には、気つけて。

 中尾口行きだと、途中までとなり、秋芳洞までは行きません。
秋芳洞 入口 09:40 着 *秋芳洞バスターミナル 着

 湯田温泉を 08:48 に出発して、約1時間ほどで、目的地の秋芳洞の入口に着きました。

 運賃は、¥1,170 です。 因みに、ここまで乗っていたのは、私の他一人、合計2名だけです。
 
秋芳洞 入口 09:45 頃 *秋芳洞への道

 幸い、天気は快晴、気温も良い。
  
 秋芳洞への案内板もあり、迷うことはありません。
 秋芳洞までの道にあるお土産屋さんです。クレープやアイスの種類が多いのが自慢のようです。
  
秋芳洞 入口 09:50 頃 *秋芳洞入口

 バスを降りて、歩いて10分もかからずに、秋芳洞入口に着きます。
  ◎入洞料は、大人は 1,300円です。この料金で、洞内にあるエレベーターにも乗れます。 
秋芳洞   
*秋芳洞の地図

秋芳洞が出来たわけ

 秋芳洞がある一帯の土地、秋吉台は、約3億5千年前までは南方の海にあり、サンゴ礁が長い年月を経て降り積もって岩石(石灰岩)を形成して行きます。
 その南から大陸(プレート)がゆっくりと移動し中国地方で海底が盛り上がって現在の石灰岩でできた陸地、カルスト地形と呼ばれる秋吉台ができました。

 このようなカルスト地形は、地球上の各地にあり、私も訪ねたヴェトナムの「ハロン湾」や中国の「石林」にも見られます。

   ヴェトナムのハロン湾

   中国の石林

 この秋吉台を形成している石灰岩の特徴として、水に浸食されやすいことがあげられます。

 秋吉台に降った雨水は、百万年もかけて地下にある弱い石灰石を溶かし、削り取り地下水道として徐々に洞窟の穴を広くしていきました。

 秋吉台では今でも地下の洞窟の探検がなされていて、分かっているだけでも、400をこえる洞窟があり、秋芳洞はその中でも一番大きな洞窟です。



秋芳洞について
  山口県のほぼ中央にある美祢市(みねし)にあり、国定公園である秋吉台の地下100m〜200m近くにある鍾乳洞。
  地下を流れる水の浸食により約10万年前に洞窟はできたようで、水の流れで穴が大きくなり、上から陥没して広い空間ができる。今でも大量の水が流れて、浸食をしている。
 大きな洞窟があることは、昔から知られており、以前は「瀧穴(たきあな)」と呼ばれ「水神のすみか」とされていて住民は近づかなかった。
 歴史にでてくるのは、室町時代の1354年、大干ばつがあり僧侶が洞内で雨ごいをした記録がある。

 明治時代後期に鉱山業を営む梅原文次郎が開発を行い名所として開窟した。

 1922年(大正11年)に国の天然記念物となり、1926年(大正15年、昭和元年)5月に、時の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が、当地を訪問された後に「瀧穴」から「秋芳洞(あきよしどう)」と名前が変わった。

 ◎「あきよしどう」か「しゅうほうどう」か、読み方は?
  正式には「あきよしどう」だけど、「秋芳洞観光センター」は、「しゅうほうどうかんこうせんたー」と言っているように「しゅうほうどう」と言っても間違いではないようだ。
 私は、「しゅうほうどう」と教わった。漢字も同じ「あきよし」でも、「秋吉台」と「秋芳洞」では、違っているよ。

*秋芳洞は、1952年(昭和27年)には、特別天然記念物となり、秋吉台は1955年(昭和30年)に国定公園として指定され、1964年(昭和39年)に特別天然記念物になっている。

 秋芳洞の全長は約88Km。
 「千畳敷」と呼ばれる広い場所では、高さは30mで幅は100mもある。
 最大の幅は、200mもある。

●見学時間
  洞内は、あちらこちらで写真をたくさん撮っても、またエレベーターで上に上がっても、だいたい2時間もあれば充分に見られる。
秋芳洞  10:00 頃 *秋芳洞の入口

 観覧料:大人 ¥1,300ー も払いましたから、この岩の割れ目から、秋芳洞に入って行きます。

 入口の手前は、洞窟内から流れ出た水が川になっていて、大分前までは、ここを舟で渡っていたようですが、いまは、ご覧のように屋根のある桟橋がかかっています。


 なお、秋芳洞内には、トイレがありませんので、洞内に入る前に、切符売り場の近くにある公衆便所でようを済ませておいてください。

   
秋芳洞 内   *青天井(あおてんじょう)

 正面入り口から入ってすぐのところに高さ約30m、幅約50mの巨大な空間が広がっている。
 「青天井」という特徴的なその名前は、左の写真からは青く見えませんが、洞窟の外からの光が川に反射し、天井が青く見えることに由来したとのことです。

 洞内は暗くて、カメラのフラッシュも届かないので、観光協会さんからの借用です。

*【秋芳洞冒険コース】もある 〜自然が生み出す造形美〜
  秋芳洞洞内、正面入口近くの「青天井」付近左手側から岩肌を登っていくコースです。
  料金箱に 別途、300円の料金を入れ、備え付けの懐中電灯を持って入ります。
  はしごを登ったり、鍾乳石の間をすり抜けたりと距離は短いですが、ちょっとしたケービング(洞窟探検)気分が味わえます。
  よほど洞内の水の量が多くない限りは、いつでも体験できます。

  冒険コース所要時間 約10〜15分  ※受付は16時までとなります。
秋芳洞 内    *百枚皿(ひゃくまいさら)@

 「秋芳洞」の中で最も有名なスポット。
 正面入り口から入って少し進んだ先に、水に溶けた石灰分が沈殿してまるでお皿のようになった石灰華段丘が広がっている。
 500枚以上の皿が連なる景色は、畑の千枚田を思わせてまさに素晴らしくて壮観の一言。

 段の中腹から流れ出る石灰水が波紋状に固まって現在の形を作り出しており、長い年月をかけて形成された地球の歴史そのものを感じ取ることができる。

 自然が長い年月をかけて作り上げた圧倒的な力を感じます。
秋芳洞 内   *百枚皿(ひゃくまいさら)A

 左の画像と同じ百枚皿ですが、デジタル処理しました。暗いので光線の当て方と撮影の場所の違いでこんな感じにもなります。

     
秋芳洞 内    *広庭

 百枚皿からの先は、ドーム状に開けた大空間が待っています。
 広庭と呼ばれる空間の中央には石灰分を含んだ水が堆積した高さ約8mの「洞内富士(どうないふじ)」がそびえ、記念撮影スポットとして人気。

 確かに、一見、富士山のようにも見えます。石灰が下から積みあがってできたのでしょう。
秋芳洞 内    *千町田(せんちょうだ)


 百枚皿と同じよう石灰の溜まり方ででき方をした鍾乳石ですが、百枚皿と異なり、皿1枚あたりの面積が大きいのが特徴。

 水中には暗闇に特化して目が退化したヨコエビが生息している。
 秋芳洞 内   *南瓜岩(かぼちゃいわ)

 暗くて分かり難いのですが、岩が丸く盛り上がって、かぼちゃのように見えます。
秋芳洞 内   *大松茸(おおまつたけ)

 かぼちゃ岩の隣に、松茸の形の岩があります。(こちらの方が、かぼちゃに見えるか?)
秋芳洞 内   *?(竹冠に包む)柿(すぼかき)

 「?」とは難しい漢字です。 「ほう」とか「ひょう」とも読みます。この漢字を探すのに苦労しました。(でも、標準漢字ではないので、パソコンによっては、表示されないかも)

 意味は「包む」のようですが、写真の右側手前にある柱上のものです。

 上から3段にくびれているので、包むから「すぼ」になったようです。

 
秋芳洞 内   *縮緬岩(ちりめんいわ)

 人が触れないように鉄格子に覆われています。

 「ちりめん」とは、細かく皺がよった特徴を持つ布の織り方です。

 岩の表面がキラキラしています。
秋芳洞 内   *天井からのつらら石

 秋芳洞は、石灰石で出来ている鍾乳洞です。

 洞の天井から落ちてきた石灰が長い年月をかけて、つららのように出来ています。
秋芳洞 内    *大黒柱(だいこくばしら)

 大黒柱とは、よく名付けたものです。

 天井から、太く下に繋がっています。

 他にもこんな感じの石筍もあります。
    *空滝(からたき)

  まあ、いろいろと名付ける物です。

 言われてみれば、上から滝が流れてくるような形です。
秋芳洞 内   *洞内の広さ 〜千畳敷〜

 秋芳洞でも少し高い所に出て、いま来た道を振り帰ると、秋芳洞にかなりの空間があるのが分かります。

 さすがに暗くて、私が持っているデジカメでは、洞窟の奥まで光が届かないので、これは、画像処理をして、極端に明るくしましたが、このくらいしか明るくできません。
秋芳洞 内   *黄金柱

 岩壁を流れる水により成長した、フローストーン(流れ石)とよばれる鍾乳石。高さ15m、幅4mの巨大な岩が黄金に照らし出され、秋芳洞の大黒柱のようにそびえ立つ。

 ここは、撮影スポットです。
黒谷支洞 内   *黒谷支洞へ入る 〜蘇鉄岩(そてついわ)

 黄金柱から先は、出口の黒谷案内所に向かって黒谷支洞と呼ばれる道へ入る。

 ここは秋芳洞が形成された初期のころの地下水路といわれ、さまざまな形の鍾乳石を見ることができる。

 下に川は流れていないので静か。

 この秋芳洞の支洞には、黒谷支洞があり、他にも秋吉台には、「大正洞」とか「景清洞」もあるようですが、そちらはま観光用には充分に整備されていないようです。
黒谷支洞 内    *猿すべり

 お猿さんが滑って遊んだのでしょうか。
黒谷支洞 内   *石灰華の滝

 上から鍾乳石である石灰が、時間をかけて、まるで滝のように形成されたのですが、ここの命名「石灰の華の滝」では、余りにも化学的で他の名前と異なっていて面白くありません。

 この形状では、「岸壁にそびえる五重塔」の名前はどうでしょうか?

 
黒谷支洞 内   *巌窟王(がんくつおう)

 なんで、これが巌窟王?

 洞内(岩窟)に盛り上がっているのが、人に見えるのか?

   天井は高い
黒谷支洞 内    *滝の横穴

  まったく自然が何万年もかかって創り出した景観は、見飽きません。


 もっと、明るくしてくれたらいいとも思いますが。暗い方が神秘的との演出ですか。
黒谷支洞 内   *マリア観音

 秋芳洞では、命名するのには何でもありか?

 日本古来の鍾乳洞にある像のような物に「キリスト教」の「聖母マリア」を持ってくるとは、もう一貫性がないやり方だ。

 海外の旅行者目当ての命名か?

 私なら、「薬師様」と付けるが。
黒谷支洞 内    *黒谷支洞の出口へ
黒谷支洞 内   *3億年のタイムトンネル@

 ここから先は、黒谷支洞へ入るために掘られた全長187mの人工の洞穴で「3億年のタイムトンネル」と呼ばれ鍾乳洞ではありません。

 「3億年のタイムトンネル」の壁面には、地球誕生から現代までの秋吉台をイメージした絵が描かれています。
 
 ここからUターンして秋芳洞の入口へ戻ることも可能。

 原画:尾崎眞吾
 照明:伊藤 馨
 音楽:ちひろ 
 とあります。

 折角ここまで来たのですから、このトンネルも見物しましょう。
3億年のタイムトンネル     *3億年のタイムトンネルA
   
3億年のタイムトンネル    *3億年のタイムトンネルB

 左の写真の類人猿の顔が、いつも見てる人の方に向かって見えます。
  いわゆる「だまし絵」です。 ロシアのパブロフスク宮殿 にもありました。
秋芳洞:黒谷口 入口  11:00 頃 *秋芳洞:黒谷口 入口
  これで、秋芳洞は下の入口から上の黒谷支洞まで、全部見ました。中は暑かった。 黒谷支洞の入口から出ても、前に買っている観覧切符を見せれば、また、来た洞窟を、無料でもどれます。

 洞内は蒸し暑かったし、約1時間ぐらい歩き回ったので、少し疲れたので外の椅子で休憩して新鮮な空気を取り入れ、朝来た入口の方へもどります。

*カメラのレンズにくもりがついている。
  秋芳洞内と外の温度差がかなりある証拠です。
秋芳洞 内   *エレベーターに乗る@

 次の目的地:萩行きのバスの発車時刻は、11:50 です。
 
 来た道をもどっても、まだ、少し時間があるので、秋芳洞の残りの箇所:エレベーターにも乗ってみましょう。

 ◎エレベーター乗り場は、秋芳洞のやや中央、黄金柱の近くにあります。

 洞内は暗いので、すこしばかり分かり難い場所にあります。注意して探してください。

 このエレベーターにも最初に買った観覧切符が使えて無料で乗れます。
秋芳洞 内    *エレベーターに乗るA

 一度に、5,6人程乗れるエレベーターでしたが、庫内は、上から雨漏りがしていました。 今日も秋芳洞の水量は多そうです。

 エレベーターの出口から歩いて、10分ほどで、秋吉台が一望できるカルスト展望台へ行けるそうですが、今日は、時間がないので、やめます。ここまでです。
  一度、外に出ても、最初に買った観覧切符があれば、再入場できます。
秋芳洞バス・センター 11:30 頃 *秋芳洞バス・センター

 約、1時間50分ほどで、秋芳洞内の見物を網羅して、朝入ったバス停がある秋芳洞の入口へ戻ってきました。 

 ここから次の目的地:萩行きの防長バスは、11:50 にでます。

 秋芳洞から萩のバス・センターまで 秋吉台や大正洞・サファリランドなどを経由して約1時間かかります。 料金は、¥1,790 です。
秋芳洞〜萩へ

秋芳洞〜萩へ  
  ◎秋吉台のウンチク:

 秋吉台は、山口県中西部に位置し、約1万ヘクタールの面積を持つ日本最大級のカルスト地域である。
 中央部を流れる厚東川(ことうがわ)によって東西二つの台地に分けられ、東側台地の563ヘクタールの地下に発達した地下水系と、秋芳洞、景清洞、大正洞が条約湿地として登録されている。

 秋吉台を構成する石灰岩は、約3億5千万年前に大洋域で形成された生物礁に由来する。この生物礁は、海洋プレートに乗って移動し、その間8千万年に渡って成長し続けた後、約2億6千万年前に大陸プレートに付加した。そして、少なくとも数百万年前には地表付近まで隆起し、地表由来の水により溶食されることで、カルスト地形が形成された。

 秋吉台の地下には、石灰岩の割れ目に沿って網の目のように洞窟が形成されており、これを流路としてカルスト地下水系が発達している。東側台地の地下水系は、全体として北東から南西に流れ、厚東川へと合流する。南部の秋芳洞水系と北部の鹿ノ井手水系が主要な水系であり、それぞれ約1,400ヘクタール及び約1,200ヘクタールの集水域を持つと推定される。

 
  *空から見た秋吉台 〜山焼き後〜

 秋吉台地のあちら、こちらには石灰岩が浸食されてできた「ドリーネ」と呼ばれる「穴」がたくさん空いていて、ここに落ちるともう出てこられない!

 勝手に秋吉台を歩くと、怖いよ!

   

◎年1回山焼きをしている
 「秋吉台国定公園」の景観を守るため、また、学術的な価値の高い自然としての「特別天記念物 秋吉台」を次世代に引き継ぐため、毎年2月下旬に秋吉台上の約1,138ヘクタールに火を入れています。

 この山焼きにより、草原の維持、森林化防止、貴重な植物や昆虫等の生息環境保全、倒木等による石灰岩の棄損を防止しています。
 
 この山焼きでは、2017年に急に風向きが変わって死亡事故がおきている。
 この事故以降、見物などは制限された。

 農業や牧草を維持する目的て600年近く行われてきた行事の「山焼き」だけど、準備や実行に時間と人手がかかり、さらに農家の形態も変わり、牧草を採る役目も終え、今は観光用になっている。
 だけど山を焼くのは、かなりのお金と人手がかかるようで、ここでも人口減と高齢化により山焼きを継続していくのは大変で、管理者の美祢市(みねし)は、寄付と参加者を募っている。
秋吉台    11:50

*秋芳洞からバス 発

 定刻の防長バス 11:50 発に乗ります。 乗客は、私、一人で、貸し切りです。

 秋芳洞から、秋吉台の展望台も通って、綺麗に山焼きされたカルスト地形の秋吉台がバス道の左右に広がります。
秋吉台    *秋吉台


  石灰石でできた秋吉台は、水に浸食がされやすく、なだらかな傾斜の丘のようです。
 窪地、窪地に溜まった水が地下に流れ込み、秋芳洞、大正洞、景清洞などの鍾乳洞を作っています。
 この秋吉台の地下には、約400もの洞窟があるといわれています。

 左の写真は、山焼き地区ととそうでない地区との境目付近。

 山焼きをしている地区は、大きな木が無い。

 穴ぼこ(ドリーネ)は、バスからは、はっきりとは分からないが、穴のようなものは見える。
大正洞   *大正洞の入口

 古くから「牛隠しの洞」として知られていた大規模な鍾乳洞。大正時代に発見された5層の洞窟からなる。観光コース(約1km)もある。
  
*大正洞には入っていませんが、参考に、 
 標高160mの洞入口が「牛かくし」。
 その上に「極楽広場」。そして「高天原(たかまがはら)」となります。
 地下部分としては到る所で深い穴があり、「地獄」・「奈落」へと続いています。
 この五層からの構成で成り立っている洞窟です。




 一応、乗る人はいなくても、路線バスは、停まりますから、写真は撮れます。

茶色の瓦    *山口県では茶色(赤?)の屋根瓦の家が多い  

 私が今まで住んでいた関東の家にないのが、写真の左側にある家の茶色の屋根瓦です。非常に光沢があり、輝いています。

*茶色の屋根瓦は、「石州瓦(せきしゅうがわら)」という。
 この「石州瓦」は、山口県の隣、島根県中西部の石見地方で生産されている瓦で、1,200度以上という高い温度で焼き上げているため、密度が高く、透水や凍結、積雪の重み、塩害などの耐久性にも優れているとのことです。

そのような特性があるため、寒冷地の多い、島根県、山口県北部、広島県の山間部に多く使用されていている。

*色が茶色の訳は?
 これは、島根県東部の出雲地方でとれる凝灰岩質砂岩でできた来待石(きまちいし)から作られたうわ薬の来待釉薬(きまちゆうやく)の色です。 高温で焼成できる石見の都野津(つのづ)層の土と来待釉薬で絶妙な赤色を生み出しています

 納得しました。
萩バスセンター 12:50 着 *萩バス・センター 着

 だいたい、定刻で今夜の宿のある目的地の萩バス・センターに着きました。
 出発地の秋芳洞から、約1時間かかりました。 料金は、¥1,790 です。

 秋芳洞から、ここまで、大正洞や、写真はありませんが、サファリランドなどかなりのバス停もありましたが、誰も乗ってこず、乗客は、最初から最後まで、私一人でした。 バスの運転手に聞くと、乗客が一人もいない日も多いとのことでした。

 *面白い地名があった 〜角力場(すもうば)
  国道262号と県道32号の交差点近くのバス停留所で「角力場(すもうば)」という変わった名がありました。
  相撲/角力は、昔から神に捧げる行事だったから、この場所で「すもう」をとっていたのかな。確かに、近くに宇麻神社もある。
    
昼  食 13時頃   昼食 〜どんどんうどん店〜

  昼過ぎとなったので、食事にします。

 到着した萩バス・センターの近くに、乗ってきたバスの運転手さんお勧めの「どんどん唐樋店(からひてん)」があったのでここにしました。

 頼んだのは、この店の一番料理「たなかうどん」という肉とワカメが入ったうどんです。
 なんでこの肉・ワカメうどんが「たなかうどん」なのかと店の人にきいたところ、従業員の「たなか」さんが賄いで創ったら美味かったので、お客さんにも出すようにしたとのことでした。
 ¥650 で、入口でお金を払うと、すぐ出てきます。ねぎは小すり鉢に山もりで付いてきます。 つゆもウドンも、肉も美味しい。

 もう1時過ぎでしたが、かなりの有名店らしく店内にはお客さんが一杯でした。
   *明倫学舎へ

 うどん屋「どんどん唐樋店(からひてん)」の名物うどん「たなかうどん」を食べて、お腹も充分になったので、ここから歩いて萩の町を巡ります。

 まず、西にある「明倫学舎」へ行きましょう。

 *明倫学舎

 萩にある「明倫館」は、幕末における長州藩の活躍に大きく貢献した藩校です。

 萩藩校明倫館は、享保4年(1719年)に5代藩主毛利吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に開いた藩校です。それから約130年後、嘉永2年(1849年)に城下の中心地(現在地)へと移転、規模を拡大しました。

 約1万5千坪(約5万u)もの敷地内に、宣聖殿と呼ばれた学神:孔子を祀った聖廟を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として学問習得のための建物、それも漢学中心の初等・高等の教育施設が配置され、東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、後方には水練池、北方には約3千坪の練兵場が設けられていました。
 吉田松陰や初代群馬県知事となった楫取素彦(かとり もとひこ)(小田村伊之助)もここで教鞭をふるいました。

 創建より慶応3年(1867年)の廃館に至るまで、前後約150年の長期にわたって藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の中で大きな役割を果たしました
*明倫学舎 〜本館入口〜 1935年築
  萩・明倫学舎本館【文化庁登録有形文化財山口県第1号】

 14時頃から、明倫学舎の見物です。

 現在の敷地内には、旧明倫小学校本館(昭和10年(1935年)に建てられた木造2階建ての校舎が4棟あり、平成8年(1996年)に国登録有形文化財に登録されています。

 藩校跡に建つ日本最大級の木造校舎が、平成29年(2017年)3月4日 萩・明倫学舎として開館しました。

 また、剣槍術場である有備館、水泳や水中騎馬の練習が行われた水練池、観徳門などが残っており、自由に見学していただけます。

 *入場料無料の入って直ぐの1号館には、展示室やレストランもある。2号館から先に入るには、 ¥300 取られるので入りません。
明倫学舎  *明倫学舎内

 ◎有備館(ゆうびかん) 【国指定史跡】
   有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもので、木造平屋建入母屋造桟瓦葺(いりもやづくりさんかわらぶき)、桁行(けたゆき)37.8m、梁間(はりま)10.8mの南北に長い建物である。内部の北半分は板の間で39畳の剣術場、南半分は土間で54畳の槍術場、各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室がある。

有備館の内部は公開されており、ボランティアガイドが常駐しています(無料)。
  
 有備館は、藩士の練武のほか、他国からの剣槍術の修業者との試合場、すなわち「他国修業者引請剣槍術場」でもあった。土佐から来た坂本龍馬もここで試合をしたといわれる。
 
明倫学舎 *明倫学舎内

 南門です。

 新明倫館の正門として建てられた。

 藩主が聖廟(せいびょう)を拝する春秋の「釈菜(せきさい)(孔子祭)」や公式行事以外は開かれなかった。

 以前は本願寺山口別院に移され正門となっていたが、その後寄付され平成16年(2004年)に元の位置であるここに移築された。

 明倫学舎内には、他にも見どころはあります。

◎聖賢堂(せいけんどう)【市指定有形文化財】
 聖廟(せいびょう)前、観徳かんとく門の左右にあった東塾・西塾の遺構。両塾を合わせて一棟とし東田町にある阿呼社(あこしゃ)境内に移築されていたが、大正7年(1918年)に再び現在の位置に移された。
中央公園 *中央公園 〜山県有朋(やまがた ありとも)像〜

 明倫館の西隣が、広い萩市の中央公園です。バス停や観光案内所もあります。

 そして、こんな、山形有朋(やまがた ありとも)の堂々たる騎馬像もあります。

 高さ4m、重さ約5トンもあるこの像は、北村西望(きたむら せいぼう)の昭和4年(1929年)の作で、戦後、GHQの命で東京で放置されていたものが、萩市の要望で、平成4年(1992年)この萩市の中央公園に移設されたものです。

◎山形有朋とは
 1838年(天保9年)生〜1922年(大正11年)没(82歳) 
  長州藩の下級武士の出身。松下村塾に入り高杉晋作の奇兵隊で活躍した。日清・日露戦争で元帥・参謀総長、陸軍大将として指揮をとった軍人。東京の「椿山荘(ちんざんそう)」の元を造った。
城下町 *中央公園から昔の名残がある、城下町へ

  14:20頃〜

 明倫学舎の西隣にある中央公園を抜けて少し北にある小さな川を渡り、また西にいくと、江戸時代の萩藩の面影が残る城下町の一角がありますので、歩いて行きましょう。

 旧萩城の外堀の東側に広がる城下町の町筋は碁盤目状に四角で区画され、藩の御用商人の菊屋家や豪商・久保田家などの商家をはじめ、木戸孝允(きど たかよし)や高杉晋作など明治維新で活躍した中級の武家屋敷や蘭方医・青木周弼(あおき  しゅうすけ)の家などが点在していました。

 現在でも町筋はそのままに残り、江戸末期の面影をとどめています。

白壁と漆喰を盛り上げたなまこ壁や黒板塀の美しい町並みが続き、維新の志士ゆかりの地が点在しています。 
江戸屋横町 *江戸屋横町 〜焼き杉の黒板塀がつづく風情ある通り〜

 江戸屋横町は、焼き杉を使用した黒板塀がつづく風情ある道。通りには、維新の三傑の一人である木戸孝允(きど たかよし)の旧宅や、蘭方医・青木周弼(あおき  しゅうすけ)の旧宅、高杉晋作・伊藤博文ゆかりの円政寺(えんせいじ)などが点在しています。
マンホールが道案内になっている。
木戸孝允旧宅 *木戸孝允(きど たかよし)旧宅
  
 西郷隆盛、大久保利通と並び「維新の三傑」と称された木戸孝允、別名「桂小五郎」が誕生した地。
 誕生の間や幼少時代の手習いの書、写真などが展示されています。
 血気盛んな若者たちの「兄貴分」的存在として慕われ、暴走しがちな藩のバランス役として、倒幕への舵取りを任された木戸孝允。近代国家の樹立に多大なる功績を残しました。

 家の中に入るには、他の9施設と共通の券(¥310)が必要なので、入っていません。

*木戸孝允のウンチク
 木戸孝允は、天保4年(1833年)、萩藩医・和田昌景の長男として生まれました。後に藩士・桂家の養子となり“桂小五郎”の名でも知られています。藩校明倫館に通い吉田松陰の兵学門下となり、文久2年(1862年)藩の要職に就き京へと出て国事に奔走。慶応元年(1865年)、藩命により姓を“木戸”と改め、翌年、土佐の坂本竜馬の仲介のもと薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと“薩長同盟”を結び明治維新に尽力。維新後は、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残しました。明治10年(1877年)、西郷隆盛が起こした西南の役の途中で病死。享年45歳。
 
青木周弼旧宅 *医者:青木周弼(あおき しゅうすけ)旧宅

 余り、青木周弼(あおき しゅうすけ)と聞いても馴染みがありませんが、

*青木周弼のウンチク
 青木周弼は、享和3年1月3日(1803年1月25日) - 文久3年12月16日(1864年1月24日)、江戸時代後期の蘭方医。

 長崎のオランダ商館にいたドイツ人の医者:シーボルトにも教えを乞い、長州藩の医師として種痘をしコレラの治療にも貢献したらしい。

 ここの住居内は、当時の様子をよく残していて萩市により公開されている。
 
円政寺 *円政寺(えんせいじ)
 高杉晋作、伊藤博文が学び遊んだお寺。大きな天狗のお面は必見です!

 円政寺というお寺といいながら、入り口には、神社の特徴である石鳥居(市指定有形文化財)があり、境内には十二支の彫刻が施された珍しい形式の金毘羅社があり、神道と仏教が合わさった神仏習合の形態が見られる貴重なお寺です。
 高杉晋作や伊藤博文が幼少の頃に勉学に励んだことでも知られています。
 境内には大きく迫力のある天狗の面があります。晋作は小さい頃病弱だったため、母親がこの天狗の面を見せて晋作を勇気づけたと言われています。

*天狗の面 私は中には入っていないので、NETからの借用です。
晋作広場・高杉晋作立志像 *晋作広場・高杉晋作立志像 〜若かりし頃のまげ姿の晋作像〜

 高杉晋作誕生地のそばにある晋作広場には、「高杉晋作立志像」が建っています。
 銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、よく引用される写真のざんぎり頭ではなく髷を結い、両刀を差した羽織、袴の立ち姿です。
 また、広場には晋作が好きだった梅の花も植樹されています。



 *高杉晋作のウンチク
 高杉 晋作(たかすぎ しんさく)、天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉)は、日本の武士(長州藩士)。
  幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。身分にとらわれない軍隊の奇兵隊などの諸隊を創設し長州藩を倒幕運動に方向付けた。
 
高杉晋作誕生地   *高杉晋作誕生地
 
 高杉晋作広場の向かい側に、高杉晋作が生まれた場所があります。

 伊藤博文から「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」と評された幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地。

 建物の南側半分が公開されており、晋作ゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などを見ることができます。
 ・外観からの見学になります
 ・現在は個人所有のため、不定期で閉館していることもあります。

 という訳で、ここにも私は入っていません。
菊屋横町 *菊屋横町@ 〜日本の道100選! 萩を代表する景観〜

 菊屋横町は、江戸時代の町並みが残る城下町を代表する道で、美しい白壁となまこ壁が特徴。 歴史性や美観性などに優れた道路として札幌大通、日光のいろは坂などの「日本の道100選」に昭和61年(1986年)に選ばれており、萩らしい風情が感じられる撮影ポイントです!
 通りには、藩の豪商だった菊屋家をはじめ、第26代総理大臣・田中義一の誕生地、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地などがあります。

  ・「なまこ壁」とは、建物の壁面に平瓦を貼り、目地と呼ばれる継ぎ目に漆喰をかまぼこ型に盛り上げて塗ったもので、その形が海に住んでいる「なまこ」に似ていることからそう呼ばれています。
菊屋横町 *菊屋横町A

 
菊屋家住宅   *菊屋家住宅@ 〜築400年の重みがある萩藩の御用商人・菊屋家の住宅 【国指定重要文化財】〜

 菊屋横町通りと城へと続く御成道(おなりみち)が交差する場所にある大きな屋敷が菊屋家です。

 菊屋家は、もともと大内氏時代には武士でしたが、毛利輝元公萩城築城の際には有力町人として萩に入り、 その後御用商人となり萩の町づくりに力を尽くしました。

その屋敷は江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があります。

 屋敷は江戸幕府から派遣される監査役の巡見使(じゅんけんし)が来た際にはその宿として本陣にあてられ、また、藩の賓客をもてなす迎賓館のような役割も担いました。主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国指定重要文化財に指定されており、藩主から拝領した狩野永徳や松林桂月などの屏風、掛け軸などの美術品や古書籍、当時の生活民具など、菊屋家に伝わる500点あまりの民具等が常設展示されています。

新緑と紅葉の美しい時期には、普段は公開されていない約500坪の枯山水様式の回遊式庭園が特別に公開されます!

詳細は、https://kikuyake.com/about/whole/ にあります。
菊屋家住宅   *菊屋家住宅A 〜2、000坪の屋敷は広すぎる!〜  
 約2,000坪(約6,600u。広くて実感がわかない!)の敷地の約3分の1が現在は通常公開されています。 築400年の歴史を感じる建物内には美術品、民具、古書籍が展示されており、美しい日本庭園とともに江戸時代の貴重な資料の接することができ、裕福な御用商人の暮らしぶりが偲ばれます。

 ということですが、菊屋家に入るには、有料で、私は入っていません。左の庭の写真は、借りものです。

 また、家の外観も長くて、写真では、玄関しか撮れませんでした。
旧久保田家住宅 *旧久保田家住宅@ 〜御成道(おなりみち)に面して建つ、意匠・構造にすぐれた商家〜

 上の「菊屋家」と参勤交代などで使用された萩藩の主要道路の御成道(おなりみち)を挟んで建っているのが呉服や酒で名を成した久保田家の住宅です。

 久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江(今の滋賀県)から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられます。
 以来明治30年代まで造り酒屋「あらたま酒店」を営業していました。
 明治時代には、来萩した名士の宿所としてもしばしば利用されています。つい最近まで、子孫が住んでいたようです。
 
 その建物は江戸時代の後期から明治前期にかけて、御成道に沿って建てられました。

 意匠を凝らした欄間や天井、大きな欅(けやき)の板を使った縁側など、建物の細部は、構造・技術に優れているとのことです。
旧久保田家住宅 *旧久保田家住宅A 

 旧久保田家住宅の主屋は、江戸時代には本格的な高さの二階建ては町人が武士を見下ろすので禁じられていため、天井の低い「厨子(つし)二階)建て」にして、二階を物置や使用人の寝間にしています。
 そこで、二階に上がる階段は、畳1枚分の大きさで隠せるようです。

 
 庭石も素晴らしいようだ。ここも有料なので、中には入っていません。
旧外掘 15:05頃 *休憩 〜旧外堀付近〜

 14時頃から明倫館からこの城下町まで約1時間、名所の隅から隅まで写真を撮り、歩き疲れたので、南片河筋という外堀の一角で一休みです。
 外堀と言っても、、今は殆ど水がありませんが。

 *山口名産の外郎(ういろう)を食べる。
  英気を養うため、ここで、昨日、新岩国駅の構内で買った外郎(ういろう)を食べました。 ¥361 。こし飴が甘くて、美味しい。
城下町から菊ケ浜へ   
 15:30頃〜

 約30分ぐらい外堀付近で休憩をとりました。

 まだ夕暮れまで時間があるので、この際北の方にある菊ケ浜まで歩いてみましょう。

 時間はどのくらいかかるか分かりませんが、地図を片手に行きます。
田中義一の像 15:30頃 *田中義一(田中大将)の像
 
 観光客で混んでいる城下町から、また、旧の外堀をわたり西に歩いています。このあたりには、観光客は来ていないようです。

 萩博物館の入口近くに巨大な像が目につきました。高さは、調べましたが、不明です。

 子供が登っている名盤には田中大将の像となっています。

*田中義一のウンチク

 第26代内閣総理大臣田中義一。
 田中義一は、元治元年(1864年)、藩士・田中信祐の三男として生まれました。
 陸軍士官学校を経て陸軍大学校を卒業し、日清戦争出征後、軍事情勢の探索のためロシアに留学。日露戦争では、開戦論を唱え満州軍参謀として出陣しました。
 大正7年(1918年)原敬内閣の陸軍大臣、大正10年 陸軍大将となり、大正14年に立憲政友会総裁に推され政界に入る。
 昭和2年(1927年)金融恐慌の渦中に内閣総理大臣となり、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)を発行し、銀行取りつけ騒ぎを沈静化しました。
 昭和3年、第1回普通選挙法を施行。同年、張作霖爆殺事件が勃発し、昭和4年、責任を問われて総辞職しました。
 ニックネームは「おら(俺)が大将」。

 なお、田中義一の生まれた場所は、城下町・菊屋横町にあります。
北の総門   *北の総門 〜高さ7メートル、日本最大級の高麗門〜

 北の総門は、藩政時代に、東にある城下町から西の萩城三の丸に入るために設けられた「大手三つの門(北の総門、中の総門、平安古(ひやこ)の総門)」のひとつです。かつては、昼間は門番が常駐して人の出入りを監視しており、夜(暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)まで)は門が閉じられて、鑑札を持った者しか入れませんでした。

 北の総門は、平成16年11月に「萩開府400年」を記念して復元されました。
 脇戸付きの切妻造り本瓦葺の高麗門で、高さ約7m、柱間約6m。日本最大級の規模です。本柱や「冠木(かぶき)」と呼ばれる横材などは、欅(ケヤキ)の巨木を使って復元しています。
 また門の前に架かる土橋には土塀が設置されていました。外堀に架かる土塀付きの土橋は全国唯一のものです。


旧益田家物見矢倉   *旧益田家(家老)物見矢倉

 旧周布(すう)家長屋門の並び、旧三の丸北の総門跡脇に立つ、萩藩の永代家老益田家屋敷の一部。

 高さ1.8mの石塁の上に立つ、長さ11m、奥行約5mの堅固な単層の建物。

 武器を収納する倉を矢倉といい、天井が高く見張り台も兼ねたものは物見矢倉と呼ばれていました。
 北の総門からの人の出入りを見張る“隠密対策”としての機能があり、他の総門である中の総門には大野毛利家の隅矢倉が、平安古(ひやこ)の総門には児玉家の長屋門があります。
 中の総門の大野毛利家の隅矢倉は、萩博物館の建物として復元されました。
     萩博物館の写真です。
旧繁沢家長屋門    *旧繁沢(はんざわ)家長屋門

 長さ35m、張り出した格子が続く長屋門。

 繁沢(はんざわ)家は、阿川毛利家(7,391石余)の分家で萩藩寄組(1,094石余)に属し、給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩)などに持っていました。
 
 建物は、桟瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門をあけています。
 同家藩政初期の当主 繁沢就充(なりみつ)は、藩の要職として活躍しました。
旧周布家長屋門   *旧周布(すう)家長屋門 〜江戸中期の代表的な武家屋敷長屋〜

 旧三の丸の北の総門筋にある長屋門。平屋建本瓦葺き、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路に沿った長い建物です。

 中央から東寄りの所に通用門を設け、屋根の東端は入母屋造り桟瓦葺き。建物の外観は、腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造りとなっています。

 太い格子出窓の金具、懸魚や下部の石組などすぐれた意匠が施され旧態を保っており、江戸時代中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を色濃く残しています。

 萩藩大組士筆頭の周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流(分家)で、石見国周布郷の地頭職として周布村(島根県浜田市周布村)に居住していたことから周布を名乗り、1,530石余りの知行地を大津郡渋木村(長門市渋木)に領していました。
      *萩城 〜毛利36万石の城〜

 萩城は慶長9年(1604年)に毛利輝元が指月(しづき)山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。
 本丸には高さ8軒(14.4m)の五層の天守がありましたが、明治7年(1874年)に廃城令により天守、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。

 旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社(しづきやまじんじや)が創建された際、総面積約20万uの境内が指月公園として整備されました。城跡の構造をよく残していることが特徴で、園内には天守跡、梨羽家茶室(なしばけちゃしつ)、万歳橋、東園などの旧跡があります。また、幕末13代藩主毛利敬親(もうり たかちか)が安政年間に藩主別邸・花江御殿(はなのえごてん)に増築し、家臣とともに茶事に託して時勢を論じた茶室「花江茶亭(はなのえちゃてい)」が明治22年に園内に移築されています。

 左の城の写真は、明治に解体される前の写真です。
 
菊ケ浜 16:00頃 *菊ケ浜@

  旧武家屋敷が多くある町筋から西にある指月(しづき)山にある城跡へと続くこの町筋もまだまだ見どころがありそうですが、だいぶ日も陰ってきましたので、ここらで、北にある菊ケ浜へ行き、萩バス・センターへ戻りましょう。

 菊ケ浜から見た、元萩城があった指月(しづき)山です。

 さすがに、16時頃でかなり周りも暗くなっています。
菊ケ浜   *菊ケ浜A 〜目の前に美しい日本海が広がる白砂青松の海岸〜

 この日は、日本海の波も穏やかで、この海岸線は砂浜も1kmぐらいありそうで長くて、本当に夏なら海水浴に最適な砂場です。

 今は、菊ケ浜と呼ばれていますが、前は、阿古ヶ浜と呼ばれていました。藩の豪商の菊屋が、城下の町割りにも尽力し、阿古ヶ浜に藩士、足軽のための家を建てて 住まわせたので、菊屋が浜から菊ヶ浜と呼ばれるようになりました。

   
 
菊ケ浜   *「ホテル 萩一輪」と「リゾート・ホテル 美萩」 
 菊ケ浜に面して、大きなホテルが2つありました。1つは、「宵待ちの宿 萩一輪」ともう1つは広い「リゾート・ホテル 美萩」です。

*「萩一輪」のうたい文句
 趣の異なる15種類の露天風呂付客室や、旬にこだわった季節感溢れる会席料理で、皆様をお迎えしております。
 閑かな時の流れの中、波の音を感じながら、癒しのひとときをお過ごしください。


*「リゾート・ホテル 美萩」のうたい文句
 岩盤浴&赤外線サウナ、キッズルーム、足湯、選べる色浴衣・枕など、当館での滞在をよりお楽しみいただけるサービスをご用意しております。
 地下1,500mから汲み上げている自家源泉の天然温泉。海を望む露天風呂、夕景を眺めながらの入浴は心身ともに癒されます。周りを気にすることなく貸切で温泉が満喫できる、温泉貸切露天風呂も!

  ◎ゆったりと萩を楽しむ方には、ここの宿泊は向いているかも!?
女台場     *女台場 〜外国船からの襲撃に備え住民たち自らの手で築いた土塁〜

 菊ケ浜をどんどん歩きましたので、もう萩バス・センターへ帰ります。
 その途中の土塁にこんな「女台場」なんて変わった名前の場所を見つけました。

 ここ「女台場のいわれは、
 文久3年(1863年)5月10日、尊皇攘夷を掲げる長州藩が、下関・関門海峡を通過する外国船を砲撃するという事件がありました。
 この事件をきっかけに、萩の住民の間にも「自らの手で城下を守ろう」とする機運が高まり、外国船からの襲撃に備えるため、萩藩は日本海に面した菊ヶ浜に土塁の築造するよう住民に命じました。
 武士たちの留守をあずかる老若男女たちは、身分や貧富を問わず奉仕作業し、この時ばかりはめったに外に出ることのなかった武士の妻や奥女中までが参加しました。土塁の築造にあたって特に武士の妻や奥女中の功績が大きかったため、通称「女台場」と呼ばれています。

 現在も高さ3m、幅12mの土塁の一部が50mにわたって残り、石碑が建っています。【市指定史跡】

 だそうです。
亨徳寺   *亨徳寺(こうとくじ)

 萩バス・センターへ戻るみちすがらに、こんな立派な門構えの寺があった。亨徳寺(こうとくじ)と言うらしい。

亨徳寺(こうとくじ)のウンチク 〜 道路に面して立つ木造の三門は、荘厳で堂々たる造りが見どころ〜
  亨徳元年(1452年)に創建され、元亀年間(1570〜72年)現在地に移されました。

  道路に面して立つ木造の荘厳な三門は、元禄8年(1695年)に建立されたもので、形式は三間三戸の楼門で、上階周囲に高欄付の縁をめぐらしています。屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、桁行6.3m、梁間3.3m、軒高5.26m、棟高8.7m。建立年代が明らかな禅宗楼門として貴重な遺構です。(三門は、市指定有形文化財)

 享徳寺は、高杉家の菩提寺で、高杉晋作も墓参りに訪れていました。明治になり建てられた「高杉家祖先歴代墓」と刻む墓碑がありましたが、平成4年に下関市に移されました。
萩田町商店街 16:50頃 *萩・田町商店街

 1時半ごろから始まった萩市の名所、明倫館〜城下町〜菊ゲ浜と4時間半程度かかった散策もどうやら終りです。

 萩バス・センターの近くにある萩・田町商店街に来ました。

 田町商店街は、江戸時代、藩主が参勤交代の時に通った御成道(おなりみち)に発展した商店街です。もともは田んぼに囲まれた道だったので田町というそうです。

 天井には立派なアーケードが続く商店街ですが、シャッターが降りた店も多くて、どこか活気がありません。

 *この商店街には、山口弁の表示があちらこちらにあるとか。例えば、
   ・おおくじをくる → ひどく叱る。 ひどく叱られたときは、「おおくじくられたー」と言います。
   ・たわん → 届かない。物を取ろうとして届かないときに「手がたわん」。届くことは「たう」とか「たった」と言います。
   ・めげる → こわれる。お皿など、割ったり欠けたりしたら「めげた」「めげちょる」など。
唐樋札場跡高札場   *唐樋(からひ)札場跡高札場と萩往還(街道)

 田町商店街が終わる(始まる?)場所に、唐樋(からひ)札場跡高札場といいう場所がありました。

 唐樋(からひ)札場跡高札場は、明治維新後に取り壊されたが、平成22年(2010年)4月に復元され、翌平成23年(2011年)2月に国の史跡「萩往還」に関連遺跡として追加指定された。

 ここ、唐樋(からひ)は、昔は萩の中心だったようで、藩府・萩から現在の山口市を経て防府三田尻(現在の防府市)港を結ぶ街道、萩往還(全長約53Km)の起点となる場所です。

 周防・長門両国の一里塚の基点とされました。また、幕府や藩からの「御触(おふれ)」(法令や規則など)が掲げられた高札も立っていた。

 旧の街道・萩往還には、石畳・立場(たてば、休憩場所)・一里塚・往還松などが設けられていた。山陰と山陽を結ぶ道として幕末には志士たちが往来するなどしていたが、起伏の激しい山間部は明治時代以降は利用者が減って道も荒れ、一部はそのまま廃道となった。
ホテル 高大 17:00 *ホテル 萩の御厨(みくりや)高大(たかだい)着

 今夜泊る「萩の御厨(みくりや)高大(たかだい」にチェック・イン」です。

 ここは、萩バス・センターの側にあり、直ぐに分かります。

  〒758-0044 山口県萩市唐樋町80番
  電話:0838-22-0065
  FAX:0838-25-6411
  メール:takadai@takadai.co.jp

 ◎ホテルのうたい文句
  ・料理がいい。料亭として100以上の歴史がある老舗。明治11年創業の老舗料亭
  ・見蘭牛のステーキ、 季節の串揚げ、鯛のあら炊き高大風など多彩な料理とお酒をご用意しています。


 
ホテル 高大      *ホテル 萩の御厨(みくりや)高大(たかだい)@

 ホテルの入口からフロントへ行く横に、こんな、甲冑も展示されていました。
ホテル 高大    *ホテル 萩の御厨(みくりや)高大(たかだい)A 〜室内〜

 泊る部屋番号は最上階の4階の406号室。12畳ほどある、一人で寝るには広すぎる和室です。

 朝:夕食なしで、¥8,800ー という宿です。

       
ホテル 高大   *ホテル 萩の御厨(みくりや)高大(たかだい)B 〜大浴場?@〜

 今日は、いい天気の中、約5時間近くも歩きぱなしで、汗もかきました。 そこで、夕食前にひと風呂浴びます。

 各室に風呂はありませんので、同じ4階にある「大浴場」なるものにいきます。

 ・入口が分からない!
  男性用の大浴場といいながら、それらしい暖簾もなく、どこに風呂場の入口があるのか迷い探しました。風呂場は普通の部屋と同じ鉄の扉でした。

 ◎洗い場が畳敷きとは!

 変わった風呂場です。

ホテル 高大    *ホテル 萩の御厨(みくりや)高大(たかだい)B 〜大浴場?A〜

 ◎風呂場が変だ? 

 ホテルの案内に「平成20年開湯、畳敷きの男性風呂 4階男性大浴場。大人4〜5人でゆったりとお入りいただける広さです。」
 とあります。

 何とこの「ホテル 高大」には、もともと風呂場がなかったようです。そこで、どうも4階の一部屋を改造して「風呂場」を造った感じです。
   4,5人で洗い場が一杯になるようでは、大浴場と呼ぶには、狭すぎますね。
ホテル 高大    *ホテル 萩の御厨(みくりや)高大(たかだい)C 〜レストラン〜

 高大のレストランは宿泊施設とは別棟、隣の建物にある。

  このホテルの近辺には、程よい感じのレストランはなさそうなので、探し回るのは止めにして(湯田温泉では探してもなかったので)、ホテルのフロントで、お任せセット料理の ¥3,300ー を頼みました。
ホテル 高大   18:30 *夕食 

 宿泊代の ¥8,800-には、 夕食と朝食は付いていませんから、セットで ¥3,300ー の料理です。 肉は美味かった。 カンテンのデザートもついています。 
  別途、小瓶のビールも付けました。(¥700)
ホテル 高大   21:00頃 New
*お休み

 夕食後、もうやることもないので、狭い「大浴場」に浸かり、テレビも面白くないので、また、今日は歩き疲れたので、早いですが、9時すぎに布団にはいります。

◎ 2024年11月14日(木)は終わりです。

◎秋芳洞は水音がうるさい。
 やっぱり、山口県の観光と言えば、「秋芳洞」は外せないと思います。
 いかに自然が造った鍾乳洞といっても、その規模の大きさは行ってみないと分からないほど広くて大きい。
 洞内に常に響き渡る水音や暗さ等も現地ならではの迫力でした。

 もうすこし観光資源としての要望は、百枚皿(ひゃくまいさら)などの光のあてかた(ライト・アップ)に力をいれて、「見せる」方向にもって行くべきだと思う。
 今の光の当て方では、光源も物足りない。
 
◎秋芳洞の入口は、3か所ある
 知ってた? 
 私は、秋芳洞の入口は、バス・センターの方からだけかと思っていたら、上の方の「黒谷口」からも入れるし、「秋吉台」からもエレベーターを利用して入れます。

 黒谷口の「3億年のタイムトンネル」は、物足りない趣向でしたが。

◎定期路線バスの利用者は少ない。
 湯田温泉から秋芳洞。また秋芳洞から萩へと、今回は、路線バスを使用していますが、本当に乗客が少ない。と言うより居ない。
 これでは、バス会社も儲からずに、廃線を考える訳だ。
 でも、車を持っていれば路線バスが無くなってもいいけど、車を持たない高齢者はどうするのか?
 日本の田舎の過疎化問題は解決策が見つからない。

◎「どんどん唐樋店(からひてん)」の「たなかうどん」  
 レジ前でメニューをどれにしようかと、迷っていて、独特な「たなかうどん」に決めてテーブルにつくか、つかないかという待ったなしのタイミングで、うどんが出ます。
 この注文したうどんがすぐ出る速さも、ここ「どんどん店」の特徴のようです。
 うどんを出す担当の人が、お客さんの注文の話をレジ担当の人と同時に聞いていて直ぐに用意しているようで、もしも途中でお客さんが注文を変えるとフライングで別のうどん料理をつくることもあるようでした。

◎明倫館
 山口の萩に来るまで、明倫館なんて藩の学校があったことは全く知りませんでした。
 入場料をとられるので、2号館などには入りませんでしたが、無料で入れる本館(1号館)には、展示物もあるし、レストランもお土産売り場もあります。

◎城下町
 萩の旧城下町を回ったけど、昔の藩の御用商人だった「菊屋家」の広さは半端でないほど広い。
 また、情報によると菊屋と道を挟んである久保田家の庭石も立派とのことだ。
 そして、ひな人形のコレクションも、菊屋も久保田家も素晴らしい物のようだ。
 この両家とも入るには、有料なので入らなかったけど、時間があれば、入ってみたかった。

◎萩焼の店
 私はお土産を買うなんて気持ちがまったく無いので、触れていないけど萩はお茶席でよく使われる「萩焼」の名所です。
 萩焼は、歴史的にも400年前からあり、独特の柔らかい風合いがあります。

 萩焼のお店は、城下町や明倫館の中など各所にありました。

◎菊ケ浜
 瀬戸内海で育った私には、冬に近い日本海となると、どうも荒れた・寂しい海という感じしか無いのですが、訪れた11月14日の菊ケ浜は、ベタ凪で、また海岸線も長い綺麗な砂浜でした。
 これなら、夏は海水浴場として最適でしょう。

◎萩城
 萩の歴史を調べていたらどうしても中心となる萩城の存在には触れる必要があって、行ってはいないけど、取り上げた。

 明治の廃城令によって解体されたけど、萩の観光シンボルとして復元できないかな?

*ホテル 高大の風呂場
 11月14日に泊った「高大」だけど、ここの「大浴場」は面白いというか変だった。
 洗い場が畳敷きとは、ありえないし、また、4,5人しか入れないほど狭い。
 浴室のドアも鉄製で4階の一部屋を改造したようだ。
 

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第1稿:2025年 1月25日:完成
2024年12月27日から作成

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