オーストリア、スロバキア、ハンガリー、チェコ そして ドイツ   10日間の旅行記

第7日目: 2012年(平成24年)  5月18日(金)  

チェコのプラハ、ドイツのドレスデン

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プラハ観光図

 

◎ 本 日 の ス ケ ジ ュ ール
 場 所  概 要
起床 06:30 プラハのホテル:パノラマ・ホテル・プラハ
朝食 06:30~ New
ホテル:パノラマ・ホテル・プラハのビュッフェ
ホテル 発 08:30 チェコの首都:プラハ観光 へ
プラハ観光  09:00~ 【世界遺産】 プラハ歴史地区観光
プラハ城
カレル橋と彫像
プラハ旧市街・仕掛け時計(天文時計)
昼食 11:50 New
魚料理
プラハ 発 13:10 ドイツのドレスデン へ
ドレスデン 着 15:50~ *ドレスデン観光 
 ゼンパー・オペラ
 ツヴィンガー宮殿
 レジデンツ城
 君主の行列
ドレスデン 発 18:50 プラハ へ戻る
プラハ 着 夕食 21:05 ホテル:パノラマ・ホテル・プラハ
夕食 21:05~ New
ポーク料理
宿泊 22:05  New
ホテル:パノラマ・ホテル・プラハ

 

訪  問  地 詳    細
ホテル:パノラマ・ホテル・プラハ 05:52

*起床
  
  昨日(5月17日)、ハンガリーのブダペストを出て、夕方にチェック・インしたチェコはプラハのホテル:パノラマ・ホテル・プラハ、820号室での朝です。

  阪急交通社から指定されている起床時間は、6時30分ですが、6時前に目が覚めています。

 今日は、朝日がきれいで、風もなく、天気もよさそうです。
    
ホテルの前はアパート群です。

ホテル:パノラマ・ホテル・プラハ 06:30 *朝食
  ホテル:パノラマ・ホテル・プラハ 1階でのビュッフェ形式での朝食です。

 今回のツアーで初めて、ホテルのビュッフェ形式でのフル・コースでした。ジュースやコーヒーなどの飲み物も料理もたくさんあります。

 ハム、ベーコン、コーン・フレーク、スープなど本当に朝から食欲はあります。

 いつもは、腹の調子が心配で、食べたことのないヨーグルトも食べてみました。(幸い、お腹は、大丈夫でした。また、良い味でした。)
 
ホテル:パノラマ・ホテル・プラハ 07:15 *ホテル:パノラマ・ホテル・プラハ 24階のフィットネス・クラブ

 朝食を済ませても、まだ、出発まで時間があるので、パノラマ・ホテル・プラハの24階にあるフィットネス・クラブまで行きました。

*でも、残念ながら、中は別料金制で入れず、受付嬢を撮っただけです。
   
プラハ市街観光へ 08:30
*プラハ市街観光へ

 5月13日に、ドイツのミュンヘン空港に着いてから乗っていますハンガリー登録のバスです。
 運転手さんも、ミュンヘンから同じハンガリーの男性です。

 今日の観光予定は、午前中はプラハ市街観光で、昼食後、チェコからドイツの街:ドレスデンを観光し、またこのホテルに戻ってきます。
 パノラマ・ホテル・プラハに連泊しますから、スーツケースはそのままで、写真用に予備の電池を準備しています。

*プラス1名
 現地の観光ガイドとして、日本人の女性ガイドさんも今日は乗っています。

*気温は約18度C。少し暖かですが、長袖を着ます。
プラハの基本情報
 チェコ語表示:Praha。 英語表示:Prague。人口:約125万人。
 チョコ共和国の首都であり、同国最大の都市。

 チェコ共和国では、中央よりやや西側のドイツよりに位置する。街の中央には、ヴルタヴァ川(ドイツ語読みではモルダウ川)が流れ、ヴルタヴァ川を挟んで、街は大きく東西の地区に分かれる。
 ヴルタヴァ川の東側には、天文時計で有名な旧市庁舎を取り巻く旧市街を中心に北にはユダヤ人地区、南には新市街がある。
 そして、ヴルタヴァ川にかかる有名なカレル橋を渡ると西側の丘の上には、プラハのシンボル:プラハ城があり、プラハ城内には、聖ヴィート大聖堂や旧王宮がある。

 歴史的には、6世紀後半から、この地:ボヘミアにスラブ人が集まり、10世紀頃には、外国の侵略からボヘミヤを守ったバーツラフの墓の跡に城があったが、中欧にあるため、度々の戦禍にあう。
 プラハが栄えだすのは、1346年にボヘミヤの王であったカレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語ではカール4世)となり、神聖ローマ帝国の首都をプラハに移した時に始まる。カレル4世は、プラハ城を拡張し、カレル大学を創立したり、ヴルタヴァ川にカレル橋を建設し、またヴルタヴァ川の東側の都市整備をし、この時代には、ローマに並ぶほどの中欧では最大の都市となった。
 その後、15世紀にハプスブルグ家のアルブレヒト2世がボヘミヤ王になり、16世紀にはルドルフ2世がプラハに錬金術師や芸術家などを集めて繁栄したが、宗教改革を求めるヤン・フスの処刑問題、ボヘミヤの貴族とハプスブルグ家との対立などで、プラハは衰えていく。18世紀には、ボヘミアの国会もオーストリアに併合される。

 オーストリア・ハンガリー帝国を支配していたハプスブルグ家が、第1次世界大戦の終結で崩壊した1918年にチェコスロヴァキア共和国として独立し、プラハが首都となるが、1938年には、ナチス・ドイツ軍に占領され、プラハに住んでいた、約5万人のユダヤ人が虐殺された。
 第2次世界大戦後、1945年に共産主義の影響を受けチョコスロヴァキアは社会主義国となり、プラハは首都であったが、共産党支配に反対する運動が、アレクサンデル・ドプチェクを中心に1968年に起き「プラハの春」と呼ばれたが、この改革運動は、ソ連を始めとするワルシャワ条約軍の侵攻により鎮圧され、それ以降チョコスロヴァキアは警察国家になる。

 1985年からのソビエト連邦の改革運動に伴い東欧諸国でも共産党の支配が緩み、プラハには、東ドイツから逃れて、西ドイツに亡命をのぞむ人々があふれ、ついに、チョコスロヴァキアは、これらの東ドイツの市民を西ドイツに送った。このような動きは、チョコスロヴァキア国内でも民主化運動を進め、学生と市民は、ハヴェルを代表とし、1989年11月に血を流さずに共産党支配から民主化に成功した「ビロード革命」となる。

 しかし、この「ビロード革命」で、名目上、1つの国となっていた「チョコ」と「スロヴァキア」の存在が対立し、1993年1月1日をもって、チョコスロヴァキアは、チョコ共和国とスロヴァキア共和国に分かれたが、この分裂は内戦などもなく平和的に行われたので、「ビロード革命」に因んで「ビロード離婚」とも呼ばれる。

●「千年の都」、「百塔の街」、「中世の宝石箱」
  プラハは幸いなことに、多くの建物が戦禍を逃れていて、10世紀に始まる「ロマネスク様式」から、12世紀頃の「ゴシック様式」、15世紀頃の「ルネッサンス様式」、17世紀頃の「バロック様式」、19世紀頃の「アールヌーヴォー様式」そして、現代建築まで、実にさまざまな建築様式が見られます。
 そこで、「千年の都」とか「百塔の街」とか「「中世の宝石箱」とも呼ばれます。

●芸術家:作家には、プラハの旧市街に住んでいた「変身」を書いたフランツ・カフカ(1883年-1924年)。音楽では、交響詩「我が祖国」を作曲したベドルジハ・スメタナ(1824年-1884年)や、「スラブ舞曲集」を発表し、後はアメリカに渡ったアントニン・ドヴォジャーク(ドヴァルザーク)(1841年-1904年)もいます。

【世界遺産】:プラハ歴史地区(1992年登録)
  ヴルタヴァ(モルダウ)川の東岸に位置する旧市街から南の新市街まで、そして、ヴルタヴァ川西岸の旧市街に次いで古い街並みが残るマラー・ストラナ地区、丘の上にプラハ城があるフラッチャニ地区の合計866ヘクタール が世界登録対象地域となっており、この地区には、聖ヴィート大聖堂、旧市庁舎などカレル橋も含めて、11世紀から18世紀にかけてのさまざまな時代様式の建築物が残る。
プラハ城へ 09:14 *プラハ城へ

 これから、プラハ城に向かいますが、まず、ヴルタヴァ川にかかるチェコ橋(Čechův most)から、丘の上にあるプラハ城とその下のヴァルドシュテイン宮殿やリヒテンシュテイン宮殿を眺めます。
プラハ城へ 09:30 *プラハ城へ

 レトナー公園の側を通り、プラハ城(Pražský hrad)の北側から、バスを降りて、プラハ城まで歩きます。


道の案内板には、城の絵も入っています。
プラハ城 09:33 *プラハ城 (Pražský hrad)

 プラハ城(Pražský hrad)は、現在は大統領府として使用されていますので、警備の警官もたくさんいます。

 丁度、政府の要人でも来るらしく、車道の通行は規制されていました。

 また、朝から、観光客が多く出ています。

プラハ城 09:38 *プラハ城  (Pražský hrad)

 プラハ城内にある、聖ヴィート大聖堂が見えてます。

*衛兵とのツー・ショットは定番ですが。
プラハ城内 09:41 *プラハ城 (Pražský hrad) 入口

 プラハ城には、入口に警備の人はいますが、中には無料で入れます。

 第1の中庭にある、手前の建物が現在も政府関係で使用され、敷地内の後方に、聖ヴィート大聖堂の塔が見えます。
プラハ城内   *プラハ城 第2の中庭

 入口からプラハ城第2の中庭と呼ばれる付近です。

  ここに、大統領執務室への入口などがあります。

 
プラハ城内   *聖ヴィート大聖堂 (Katedrála svatého Víta)

 プラハ城の第3の中庭と呼ばれるところに、この城でも目立つ、聖ヴィート大聖堂(Katedrála svatého Víta)が建っています。

 聖ヴィート大聖堂は、14世紀のカレル4世の時代に建築が始まり、最終的に完成したのは、20世紀の始め、1929年です。
 地下には、カレル4世や代々の王が祭られています。

 塔の高さは、99m。聖堂内のステンド・グラスは見事とのことです。入口付近は無料ですが、聖堂の中に入るには有料のようで、内部の写真はありません。

プラハ城内   *旧王宮 ( Starý královský palác)

 第3の中庭で聖ヴィート大聖堂の向かい側の建物が、16世紀まで王宮として使われていた、旧王宮 ( Starý královský palác)です。

 ここも、現在は、一部は見学ができますが、大統領関係で使用されています。

 この旧王宮の窓からヴルタヴァ川や旧市街を眺めるときれいらしいのですが、この建物も中に入るには、有料のようで、入っていません。
*陽当たりの良いところでは、子供たちがお菓子を食べていた。
(確かに、建物ばかりを見ていると、飽きる。)
 
プラハ城内   *イジー広場 (nam. U sv. Jiří)

 このプラハ城の地域はかなり広くて、聖ヴィート大聖堂などがある第3の中庭を過ぎると、聖イジー修道院や聖イジー教会があり、さらに奥には、錬金術師が集められて住んでいた「黄金の小路」などもありますが、時間がないと地域の全部を回るのは無理です。
 
 お土産屋さんやカフェもあるようですから、時間のある方は、行ってみてください。
プラハ城内 09:58 *衛兵の交代

 毎正時には、衛兵の交代があります。

 衛兵の顔が、いかにもチェコの若者という容貌が印象的でした。


 12時の衛兵交代では、楽団もつくとか。
カレル橋へ 10:03 *カレル橋へ

 プラハ城の見物も、そうそうに終え、これから、坂道をヴルタヴァ川にかかるカレル橋の方に向かいます。

 プラハ城のある高台から、無料で撮れる写真は、この左の写真程度ですが、確かにプラハが「百塔の街」ともいわれるように、塔が目立ちます。
カレル橋へ   *カレル橋へ

 プラハ城壁沿いに、急な階段の道を降りて、これからカレル橋に方へ行きます。

我々の服装は、長袖ですが、肩の入れ墨を見せびらかしている女性もいました。











カレル橋へ   *お菓子屋さん

 鉄の棒に、カステラのような生地を丸めて焼いた菓子を売っていました。

 
 ツアーに参加した人が買ったのをいただきました。Trdelnik (トゥルデルニーク)と言うらしく、砂糖をまぶしてあり、丸い鉄に巻きつけて焼いています。
 焼き立てはシナモンの甘い香りがして美味しい。
カレル橋へ 10:07 *カレル橋へ

 プラハ城から大分、下の方に降りてきました。 
  
       
聖ミクラーシュ教会 10:11 *聖ミクラーシュ教会 (Chrám sv. Mikuláš)

 聖ミクラーシュ教会というのは、プラハには2つあります。
 1つは、これから行く旧市街の広場の近くにあり、もう1つが、このマラー・ストラナ(Malá Strana 小地区)の広場にある教会です。

 聖ミクラーシュを英語読みすると、聖ニコラスです。サンタ・ニコラスで、あのクリスマスにプレゼントをくれるサンタ・クロースのことです。

 この聖ミクラーシュ教会の中の装飾は豪華で、(入るのは、有料です)、またモーツァルトが1787年に演奏したオルガンがあるので有名です。

●マラー・ストラナ(Malá Strana 小地区)
  高台にあるプラハ城の下の地区は、マラー・ストラナ(Malá Strana 小地区)と呼ばれています。この近辺には、ハプスブルグ関係の貴族が宮殿を多く建てています。

 
マラー・ストラナ広場 10:13 *マラー・ストラナ広場からのプラハ城

*セレブ対象?で、宝石屋もあります。

琥珀が多い。
カレル橋の西側の塔 10:18 *カレル橋の西側の塔(小地区橋塔)

 カレル橋には、橋のたもとの東西に塔が立っています。

 カレル橋ができた当時は、通行料などを取っていたようですが、今は、無料で渡れます。(自動車は通れません。歩行者専用の橋です。)

  塔の下にある中央のアーチの下を通ると、カレル橋です。
 
 このマラー・ストラナ側の塔も、旧市街地側の塔も、上まで登ることができます。

カレル橋 10:20 *カレル橋 (Karlův most)

 ヴルタヴァ(モルダウ)川にかかるカレル橋にやってきました。

●カレル橋のウンチク
 以前からプラハの街の中央を流れるヴルタヴァ川には、木造の橋は造られていましたが、洪水で、たびたび流されていました。そこで、神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれた、カレル(カール)4世が、1357年に石橋の建設を命じ、1402年に完成しました。
 当初は、石橋とかプラハ橋と呼ばれていましたが、1870年から現在のカレル橋と呼ばれるようになりました。

 橋の長さは、約516m。幅は、約10m。
 15のアーチの上には欄干ごとに、左右に聖母や聖人、そして英雄の像が合計30体あります。これらの像は、橋の建設後、寄付などで17世紀から19世紀にかけて、付け加えられたものです。

 建設後、度々の洪水にも耐えているとは、すごい技術です。
カレル橋   *カレル橋 

 マラー・ストラナ(小地区)側から来て、左側の8番目(旧市街から来ると右側の8番目)にあるのが聖ヤン・ネポムツキー像です。この像が、1683年にカレル橋に最初に建てられた像です。他の像の多くは砂岩でできていますが、この像は銅製です。

●ヤン・ネポムツキー:

 この聖ヤン・ネポムツキー像の下にあるレリーフに触れると幸運が訪れますよ。


という訳で、このレリーフは、ピカピカになっています。

 (私も、当然触ってきましたが、果たして幸運は訪れてきたのでしょうか?)
カレル橋   *カレル橋

 日本には馴染みの深い、聖フランシスコ・ザヴィエルの像もあります。(この写真の像は、「ブロンズの十字架像」で、フランシスコ・ザヴィエルではありません。観光客が多くて、有名な像の近くに近寄るのは大変です。)

 

*でも、このカレル橋は、いつもなら、身動きがとれないほど大勢の観光客がいて、写真を撮るにも一苦労するようですが、今日は比較的すいているとのことです。
カレル橋   *カレル橋

 ヴルタヴァ川の流れです。

*橋の上では、楽器の演奏などのパフォーマンスもあります。



 
カレル橋 10:38 *カレル橋の東側の塔(旧地区橋塔)

 カレル橋の西側から東側(旧市街側)にある塔まで来ました。

 この東側の塔も、西側の塔と同じように上まで登れます。(この塔から、カレル橋や旧市街の写真を撮ると良いようです。私は登っていませんが。)

*旧市街側から見た塔です。
旧市街 10:45~ *旧市街へ

 カレル橋の東側から、旧市庁舎・火薬塔などがある旧市街へ向かいます。

 カレル通りと呼ばれるようで、古い街並みで狭い道路ですが、橋の近くの道は車も路面電車も走っていて、団体が動くには大変です。
旧市街 *カレル通り

 通りの左右には、お土産屋さんも多くあります。チェコでは、操り人形や、ボヘミアン・ガラスも有名です。




旧市街
*女の子の人形の表情は、だいたいこの感じです。
旧市庁舎 10:52~ *旧市庁舎前

  観光客で大混雑しているカレル通りを、カレル橋から東へと歩いて来ました。
  写真の左側の建物が、旧市庁舎で、この壁面に有名なからくり仕掛けの天文時計があります。
 
 正面の教会は、ティーン教会 (Matka Boží před Týnem)です。

●ティーン教会のウンチク
  チョコ語で、正式には「ティーン(税関)前にある聖母マリア教会」と呼ばれ、この教会の裏側に「ティーン(税関)」があったので、こう呼ばれるようになったとのこと。2本ある塔の先端までは、80m。

旧市街広場   *旧市街広場 (Staroměstské nám.)

 旧市庁舎の先が、プラハの中心の旧市街広場 (Staroměstské nám.)です。

 広場の周りには、上で紹介した、ティーン教会やゴルツキンスキー宮殿、聖ミクラーシュ教会など歴史的な建物があり、広場の北側(写真の中央)には、チェコで宗教改革を唱え、1415年に火あぶりの刑に処せられた、ヤン・フス(Jan Hus)の像があります。
 また、1621年には、30年戦争により、処刑された26人のチェコの貴族を悼んで、石碑もあります。

●ヤン・フス
  プラハの近郊:フシネツで生まれ、敬虔なキリスト教徒として分かりやすい説教をするかたわらプラハのカレル大学の学長となる。しかし、十字軍の遠征費用を捻出するために教会が売り出した免罪符に反対して、教皇と対立し宗教裁判にかけられるが、自説を曲げずに異端者として、火あぶりにあった。
 この教会のやり方に納得しなかった民衆がフス派として立ち上がり、以後カトリック教会と闘うことになる。
旧市庁舎前のからくり天文時計 11:00 *旧市庁舎前のからくり天文時計 (Pražský orloj

 毎正時(9時から21時まで)には、旧市庁舎の壁にある大きな2つの時計が動き、ラッパと鐘の音とともに、時計の上にある小さな窓から12使徒が出てきます。(ラッパの音は、広場にいる演奏家が、鐘に合わせて鳴らしている?)


 先ほど(10時50分ごろ)、この天文時計の前を通った時には、また人が集まっていなくて、これなら、かなり時計に近づいて写真が撮れると思い、広場の写真を撮って、戻ってきたら、なんとこの人だかりです。

 人が多くて、まったく、時計の近くには寄れませんでしたので、からくりの人形がどのように出てくるのかは、小さくてよくわかりませんでした。

 
旧市庁舎前のからくり天文時計 11:00 *旧市庁舎前のからくり天文時計

 この時計が天文時計と言われるのは、重なり合った2つの時計が天動説(地球が宇宙の中心で太陽などは、地球を中心に回る)に基づいた動きをするからです。
 
 そこで、上側の時計は、中央の青い地球を中心に太陽や月が回り、1年、365日をかけて1周します。

 下の時計は、太陽の通り道を示す黄道(こうどう)を12宮に分けたのと農村の四季の作業が描かれ、外側の金色のローマ数字は1日の24時間を示し、こちらは、1日に1目盛り動くそうです。

*最初の時計は、1410年頃に製作され、その後修理を重ね、1865年頃に、12使徒が追加された。

 この時計も第2次世界大戦で損傷を受けたが、1948年に修復された。
旧市庁舎   *旧市庁舎 (Staroměstská radnice )

 旧市庁舎(Staroměstská radnice)も建物としては、ユニークな外観をしています。

 もとは、この写真の右側にある、広場にもまたがる大きな建物があったのですが、大部分は第2次世界大戦で破壊され今は空き地となり、現在の建物だけになっています。

 旧市庁舎内には、礼拝堂もあり、今日も、この天文時計台を見物する大混雑の中で、結婚式を挙げた幸せそうなカップルもいました。

火薬塔へ 11:34~ *火薬塔へ

 旧市庁舎前にあるお土産屋さんで、少し時間を潰し、これから、旧市街広場のデーン教会の側のツェトウナー通りから、東にある火薬塔に向かいます。


火薬塔 11:41 *火薬塔(火薬門) (Prašná brána)

 中央の黒くくすんだ古い塔が、火薬塔とか火薬門とか呼ばれる塔です。

 元々は、旧市街の城壁の門でしたが、17世紀に火薬庫として使われてから、火薬塔と呼ばれるようになったようです。
 塔の高さは、65m。塔の中はギャラリーになっています。(入場料が必要です。70コルナ(約270円)とか。)途中の44mから旧市街が展望できます。また、夜にはライト・アップされます。

共和国広場 11:43 *共和国広場 (Náměstí Republiky)

 火薬塔をくぐると、市民会館:オベツニー・ドゥーム(Obecní dům)がある共和国広場(Náměstí Republiky)に出ます。
市民会館 11:43 *昼食へ

 今日の昼食は、市民会館の1階にあるレストランでとります。



*レストランの内部は明るくて、いい感じです。 


 
昼食 11:50~ *昼食

  先ずは、前菜として、野菜サラダとパンです。
 
  ドレッシングもまあ、まあでした。
昼食   *昼食

 昼食のメインは、白身の魚とジャガイモです。

 この白身の魚の味は、かなり物足りなかった。

 ジャガイモは美味しい。

 外は良い天気で、かなり歩いたので、喉も渇き、ジュースも頼みました。
 小瓶のオレンジ・ジュースが3ユーロ(300円)とは、高い!
市民劇場入口 12:44~ *市民劇場入口

  昼食をとったレストランの隣の入口が市民劇場です。

  ここも、中には入っていません。
旧市街   *バスまで歩く。

 この市民劇場の近くは、バスの駐車が禁止されているようで、バスが停まっている場所まで、約15分ほど歩きます。

旧市街 12:51~ 
街の屋台では、Trdelnik (トゥルデルニーク)があちらこちらで売られています。
甘い香りがしてます。
旧市街 12:58~ *プラハ・マサリク駅 (Praha Masarykovo nádraží).

 バスが停まっているのは、昨日(5月17日)夕食をとったレストランから歩いた、名前の分からなかった駅のそばでした。駅舎の向こうにある建物の上の「リコー」のマークで覚えていました。

 これで、駅の名前が「プラハ・マサリク駅(Praha Masarykovo nádraží).」と分かりました。

 バスは、昨日と同じ場所に停まっていました。
ドレスデン へ 13:10~ *ドレスデン へ

 昼食も終わり、これから、チェコのプラハを出て、ドイツのドレスデンに向かいます。

  ドレスデンまでの距離は、プラハから約150Kmで、2時間40分ほどかかりました。
ドレスデン へ
ドレスデン へ 14:48 *トイレ休憩

 もう風景から、ドイツに入ったようです。

 プラハからドレスデンへは、チェコとドイツの国境をこえた筈ですが、検問がないので、どこが国境が分かりません。

 高速道路を一度降りて、一般道に入り、また高速道路に入っています。
  ドイツの基本情報

 正式名称: ドイツ連邦共和国。 Bundesrepublik Deutschland(ブンデスレプブリーク・ドイチュラント)。英語表示:Federal Republic of Germany

 .面積:約35.7万平方キロメートル(日本の約94%)。
 人口:約8,175万人
 首都:ベルリン(人口約346万人)
 民族:ゲルマン系のドイツ民族
 言語:ドイツ語
 宗教:カトリック約30%、プロテスタント約30%

 地理:ヨーロッパの中央に位置し、北は、デンマークとバルト海、北海に面し、東側には、ポーランド、チェコ、オーストリアがあり、南にはスイス、そして、西には、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグとフランスがあり、計9カ国と国境を接しているヨーロッパの大国。

  北部は、エルベ川やヴェーザー川が北海にそそぎ低地となっている。中部は丘陵地帯で、スイスやオーストリアと接する南部は南ドイツ・アルプスがそびえる。
 
 略史:
  15世紀頃までは、各地の領主がばらばらに存在していたが、17世紀頃に東北部のプロイセンを中心とした統合意識が固まり、19世紀前半には、プロイセン王国が中心になっていた。
 その後、オーストリアのハプスブルグ家と争い、1871年、プロイセン国王ヴィルヘルム1世により、ドイツ帝国が成立し、首都はベルリンとなった。
  1918年、第1次世界大戦での敗北で、ドイツはワイマール共和国になったが、政局の不安定と経済のインフレの中、極端な民族主義とユダヤ人排斥、再軍備を唱えるアドルフ・ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が、1933年に政権を握り、1939年にドイツの隣国ポーランドと開戦し、これが第2次世界大戦の引きがねとなった。
  第2次世界大戦は、1945年にドイツの敗北で終わり、ドイツは、1949年に資本主義を体制とするドイツ連邦共和国(西ドイツ)と共産主義のドイツ共和国(東ドイツ)に分裂し、アメリカを始めとする資本主義とソヴェエト連邦による共産主義の対峙する最前線となった。
  1989年には、ソヴェエト連邦の政治改革(ペレストロイカ)が、東ドイツでも民主化運動となり、ベルリンの壁が崩壊し、1990年東西ドイツは統合した。
  西ドイツの首都はボンであったが、統一ドイツの首都は、ベルリンとなった。
  
  第2次世界大戦で国土は大きな被害を受けたが、戦後の経済の復興は目覚ましく、フランスと共に、戦争のないヨーロッパを目指し、欧州連合(EU)の設立に貢献している。

 通貨:1999年1月1日よりユーロを導入。 1ユーロ=¥107  (交換レートです。)
 時差:日本よりマイナス7時間(現在、サマータイム中。他の時は、マイナス8時間))

●ドイツのハイデルベルグやノイシュヴァンシュタイン城の旅行記は、駆け足で回ったヨーロッパにあります。
ドレスデン  14:48 *ドレスデン

 どうやら、ドレスデンの街に入ったようです。

ドレスデンの基本情報

  ドレスデン (Dresden)。 ドイツ連邦共和国のザクセン州の州都。
  人口:約60万人。

  ドイツでは、東の端に位置し、チェコ国境までは、約30Km。街の中心には、エルベ(Elbe)川が流れ、少し北(約25Km)には、陶磁器で有名なマイセンがある。

  エルベ川の交易と銀の採掘で富を得たザクセン国の首都で、1700年前半から王の宮殿であるツヴィンガー宮殿(Zwinger)や聖母教会(フラウエン教会)などが建てられ、芸術と文化の街として栄えたが、第2次世界大戦では、激しい空爆にあい、街の中心部はほぼ灰燼に帰した。

  第2次世界大戦後は、東ドイツ領となっていたが、1990年の東西ドイツの統合後は、歴史的建築物の再建計画が進み、瓦礫の中に埋もれていた聖母教会の再建には、世界中から182億円もの資金が寄せられ、コンピューターも使用した「ヨーロッパ最大のジグソー・パズル」と評される中、2005年に聖母教会は復元された。

ドレスデン
旧市街
15:50~ *ドレスデン 旧市街の観光

  プラハからドレスデンまで、約150Kmを、2時間40分ほどで来ました。

  バスは、旧市街のセンパーオペラがある劇場広場に停まりました。
  これから、旧市街にある、ツヴィンガー宮殿やドレスデン城、エルベ川へ出て、聖母教会(フラウエン教会)などを観ます。
ドレスデン
旧市街
*ザクセン王ヨハンの像

 劇場広場の中央には、センパーオペラの建築を命じたザクセン王ヨハンの像が立っています。

ドレスデン
旧市街
  *センパーオペラ (Semperoper)

●1838年から1841年に渡って、ゴットフリート・ゼンパーの設計で宮廷オペラ(歌劇)劇場として建設されたので、ゼンパーオペラの名があるが、ザクセン州立歌劇場ともいう。

 初代音楽監督は、カール・マリア・フォン・ウェーバーで、次に1843年から1849年まで音楽監督を務めたリヒャルト・ワーグナーが、ここで「さまよえるオランダ人(1843年)」や「タンホンザー(1845年)」を初演したので有名。

 このセンパーオペラも1945年の英米軍の空襲で瓦礫となったが、1985年に再建された。

 オペラやバレー、コンサートの会場として現在もよく使用されています。内部の装飾も豪華だそうです。


 
ドレスデン
旧市街
  *カトリック旧宮廷教会 (Katholische Hofkirche)

  劇場広場でセンパーオペラの向かい側にあるのが、カトリック旧宮廷教会 (Katholische Hofkirche)です。

 屋根の上には、78体の聖人の像があり、内部も豪華で、ザクセンの王を出したヴェッティン家の人々が、地下に埋葬されています。
ツヴィンガー宮殿    *ツヴィンガー宮殿 (Zwinger)


 劇場広場に面して、センパーオペラの隣にある建物が、ツヴィンガー宮殿 (Zwinger)です。

●1694年に即位した、ザクセンの国王:フリードリッヒ・アウグスト1世によって建てられ、1732年に完成した。

  広い庭と回廊式の建物に囲まれています。ツヴィンガーとは、新しい市街を造る際にできた、古い城壁と新しい城壁との間の隙間を意味するそうです。
ツヴィンガー宮殿    *ツヴィンガー宮殿(Zwinger)の王冠の門 (Kronentor)

 ツヴィンガー宮殿も第2次世界大戦での空襲で甚大な被害を被りましたが、1963年には、ほぼ復旧されました。



 ツヴィンガー宮殿の現在は、入って右側が「アルテ・マイスター絵画館(古典絵画館)(Gemäldegalerie Alte Meister)」で、フェルメールの「窓辺で手紙を読む少女」やジョルジョーネの「まどろみのヴィーナス」やラファエロの絵があります。左側は「武器博物館(Rüstkammer)」で、主に16世紀から18世紀の兜や刀が展示されています。また、奥には陶磁器コレクションと数学物理博物館もあります。
  
ツヴィンガー宮殿    *ツヴィンガー宮殿(Zwinger)の時計と白磁器でできた鐘(カリオン)

  ザクセン王はドレスデン郊外のマイセンで、それまで東洋でしか創られなかった白磁器を西洋で初めて創ることに成功し、富を得ています。

 そこで、このドレスデンのツヴィンガー宮殿の時計台の周りにも、白磁器でできた鐘(カリオン)があります。

  
ドレスデン城   *ドレスデン城 (Dresdner Residenzschloß)

 ツヴィンガー宮殿から次は、ドレスデン城へ行きます。

 ツヴィンガー宮殿の回廊からドレスデン城がよく見えます。
ドレスデン城   *ドレスデン城 (Dresdner Residenzschloß)

 12世紀から続く歴代のザクセン国王の居城です。

 ここも、1945年の大空襲で、大きく破壊されましたが、修復が進んでいます。

 写真の左側にある武芸競技場(シュタールホーフ(Stallhof))の外壁にマイセンの磁器タイルで描かれた、長さ101mの「君主の行列(Fürstenzug)」は、幸いなことに空襲の被害を受けず、残りました。

●ドレスデン城も今は、ザクセン王家が集めた多くの財宝を展示する「歴史的緑の丸天井(Historisches Grüne Gewölbe )」や「新・緑の丸天井( Neues Grüne Gewölbe)」などの展示館となっています。
 特に「歴史的緑の丸天井」に展示されている財宝は、まさに金銀で飾られ豪華とのこと(入場料は、10ユーロです。)
ドレスデン城   *君主の行列(Fürstenzug)


 1123年から1904年までのザクセン王が全部で93人、マイセン製の25,000枚のタイルで描かれています。
君主の行列   *君主の行列(Fürstenzug)

  ガイドさんの話によると、この君主の行列の中でも、写真のアウグスト2世は、ドレスデンにとって大切な国王とのことです。
 隣の若者は、アウグスト2世の息子のアウグスト3世です。

●フリードリッヒ・アウグスト2世(在位:1696年~1733年)
  ポーランド王と神聖ローマ帝国王(ドイツの国王)を選ぶことのできるザクセンの選帝侯を兼ねる。ザクセンの選帝侯としては、アウグスト1世とも呼ばれる。

  怪力の持ち主で、馬の蹄鉄を素手で折ることができたとかで、「アウグスト強王(強健王)」とのあだ名もある。
  芸術と建築を愛し(また、多くの女性も愛したようで、強健王にはこの方面の意味があるようです)、マイセンの白磁器を創らせ、ドレスデンの宮廷や教会を豪華にした。
  ドレスデンにおいては、影響があった王です。
 
 
ドレスデン城    *ドレスデン城入口の左右の彫刻
ドレスデン城 *修復された像

  第2次世界大戦の空襲で多くの歴史的な建築物や美術品が破壊されましたが、地道に修復作業がなされています。

  像の白い部分が、修復個所です。


 *日本紹介のお土産もあります。


ドレスデン旧市街   *エルベ川から、カトリック旧宮廷教会とドレスデン城

 エルベ川の架かるアウグストス橋から、カトリック旧宮廷教会とドレスデン城を眺めるとこんな感じです。

  これから、エルベ川岸を写真の左側にあるブリュールのテラスへ行きます。
ブリュールのテラス   *ブリュールのテラス(Brühlsche Terrasse)

  ドレスデン城の前にあるのが、エルベ川で、この川岸、約500mは、少し高台として整備され、ブリュールのテラス(Brühlsche Terrasse)と呼ばれています。

●この場所は元は城塞で、1740年頃、ブリュール伯爵が庭園として整備し、1814年には、一般に開放したので、ブリュール伯爵に因んで、ブリュールのテラスと呼ばれます。

  ここを訪れたドイツの文豪:ゲーテがここらの景観や彫刻を見て「ヨーロッパ随一のバルコニー」といったという話があります。
ブリュールのテラス   *ブリュールのテラス(Brühlsche Terrasse)

 エルベ川の対岸のノイシュタット地区(新市街)には、ザクセン州の財務省の建物が堂々と立っています。

*テラスと呼ばれるように、木陰も多くて、ゆっくりと散歩するには最適です。

 (でも、私は、ツアーの列に遅れないように、必死ですが。)
ブリュールのテラス   *ブリュールのテラス(Brühlsche Terrasse)から聖母教会へ

 ブリュールのテラスもまだ続いていますが、丸い屋根の旧王立芸術学校(今は、アカデミー校)のところを右に降りていきます。

 多くの観光客が、同じルートをとっているようです。
ドレスデン旧市街    *観光客が多い!

 ブリュールのテラスから降りると、この狭い路地に、多くのカフェが出ていて、またかなりの人混みです。
聖母教会   *聖母教会(フラウエン教会 Dresdner Frauenkirche)

 第2次世界大戦の空襲で、徹底的に破壊されたドレスデンの復旧のシンボルともなっている、聖母教会(フラウエン教会 Dresdner Frauenkirche)です。

●聖母教会とは、聖母マリアのための教会で、ドイツでも各地に建てられています。
  ここドレスデンでも、1743年頃に、完成し、96mもあったドームのある建物は、内部の絵画と共に街のシンボルとなっていました。
  しかし、1945年2月13日と14日の英米連合軍による大空襲での大量に投下された焼夷弾による火災にもかろうじて耐えていましたが、2月15日ついに柱は火災による高熱に耐えられずドームを始めとして建物は崩れ落ち、教会は瓦礫の山となりました。
  第2次世界大戦後、ドレスデンは、東ドイツに組み込まれていましたが、市民は何とか聖母教会を戦争からの復旧のシンボルとして再建しようとし、瓦礫となった煉瓦などを大切に保存していました。
  1990年の東西ドイツの統一後は復旧計画が具体的に進められ、世界中からの寄付が集まり、1993年から、残されていた1720年の教会の設計図に基づいた再建計画が始まりました。
 再建にあたっては、できるだけ元の姿に忠実に再現することが1つの目標となり、瓦礫の煉瓦に番号を付け、古い記録や現地の人々の記憶をたどりつつ、コンピューターを使用した三次元解析で、煉瓦の1つ1つをどこの場所に埋め込むかが検討されたので、「ヨーロッパ最大のジグソー・パズル」とも言われています。
 このような困難のなか、2004年に外部が完成し、内部も2005年に出来上がり、聖母教会は、見事に再建されました。

 写真の黒い個所が、戦前からあった元の煉瓦を使用したところで、少し白いのは新しい素材を使用しています。
 
●教会の内部に入るには、別途料金(寄付金)が必要です。

聖母教会   *聖母教会(フラウエン教会 Dresdner Frauenkirche)

  聖母教会は、宗教改革を唱えたルター派の教会です。
そこで、聖母教会の前のノイマルクト広場には、マルティン・ルーターの像が、戦禍を逃れて建っています。
ドレスデン旧市街   *路面電車が多く走っている。

 ドレスデンの旧市街と新市街(ノイシュタット地区)は、路面電車で結ばれています。
アウグストス橋の上も走っています。
ドレスデンからプラハへ 18:50
*ドレスデンからプラハへ戻ります。

 ドイツのドレスデンで約3時間の観光をして、昼に来たのと同じ道を通って、チェコのプラハに戻ります。

 距離は、約150Kmですから、所要時間は、2時間程度です。

  ここから、30分もすれば、チェコ領です。
ドレスデンからプラハへ 19:50頃 *明日もいい天気?

 空には、飛行機雲がきれいな直線を残しています。



チェコへ戻って来ました。あとプラハまで66Kmです。
プラハへ   *高速道路の横断橋

 日本の高速道路周辺の機能だけのデザインの手すりと違って、どこか、てすりも綺麗です。
夕食 21:05 *ホテルで夕食

  プラハに戻って来ました。

  今日の夕食は、昨日から泊まっている、パノラマ・ホテル・プラハのレストランでとります。

  チェコといえば・・・... そう、一応、ビールも有名ですから、普段はアルコールは摂らない私ですが、試しに飲んでみます。

  ブランドは、Pilsner Urquell (ピルスナー・ウルケル)の330ml入りの緑の小瓶です。
  味は?  余り美味くない。
  値段は? ホテルなので、チェック・アウトの時に、見たら、これで、4.3ユーロ(約400円)とられていました。

*コンソメ・スープが出ます。
夕食   *夕食
  
  メインは、ポークとお米です。

  ポークの味は、まあまあですが、米は芯があり、またパサパサしていて、駄目です。

*デザートは、チーズ・ケーキとアイスで甘さが残ります。
宿泊 22:05 *お休み

 昨夜から連泊の ホテル:パノラマ・ホテル・プラハ、820号室のパス・タブに浸かり、寝ます。

 ホテル:パノラマ・ホテル・プラハの部屋については、昨日(5月17日)の下の方をご覧ください。

 なお、テレビでは、日本語のNHKも見れますよ。当然、同時の放送ではありませんが。
◎ 2012年 5月18日(金 )は、終わりです。(作成:2012年10月 8日 ~ 11月 3日)
★第7日目は、チェコの首都:プラハを観光し、午後は、ドイツのドレスデンの観光です。

●作成に時間がかかった!
  第7日目は、歴史が複雑なプラハや、戦後の復旧に力を注いだドレスデンが観光の目玉であったので、写真も多く、旅行記としての作成に時間がかかった。

●ボヘミヤ王が神聖ローマ帝国の王に。
  現在のチェコは、以前はボヘミヤ地方と呼ばれていて、そこで、なぜ1地方の国王:カレル(カール)4世(在位:1355年~1378年)が、ドイツ・オーストリア・チェコからイタリアまでも含む「神聖ローマ帝国」の国王となり、その首都をプラハにできたのかと、調べると、そこには、ローマ教皇との対立や、揺れ動く地方の国王たちの思惑とハプスブルグ家の幸運もありで、中欧がいつも争いに巻き込まれていた歴史があった。

●「プラハの春」
  私にとっては、1960年代後半の青春時代に起こった、チェコスロバキア時代の共産主義政権に反対した、プラハの学生や市民を中心とした「プラハの春」の運動が、ソ連などの軍隊によって押し込められた事実が怖い。
 日本でも、ソ連などの軍事介入を批判しても、共産主義や社会主義が一応の存在理由をもっていただけに、この時にもっとこのソ連の軍事介入が、その後の市民の言論や行動の自由を奪うものであったのか、遠いヨーロッパの小さな出来事でなかったことを知って、いかに報道機関が、時の政治に利用されるだけの存在でしかないことに愕然とする。

  

●スメタナの「我が祖国」(モルダウ)
  チェコというと、音楽としては、ベドルジハ・スメタナが作曲した交響詩「我が祖国」の中の第2曲目にある、モルダウを思い浮かべる。
  しかし、私が知っているモルダウはドイツ語では、チェコ語ではヴィルタヴァ川というのでは、作曲したチェコ人のスメタナも残念でしょう。
  

●無料では、いい写真が撮れない?
  まあ、ツアーに参加している限り、自由行動はとれないので、プラハの聖ヴィート大聖堂や旧王宮など、各地の建物内の豪華な財宝や飾りの写真はないわけで、これ以上の写真を撮りたければ、また別の機会にってことになるのですが、ここまできて、それらが見られないとは、という悲しい気持ちです。

●天文時計に近づけない!
  反省です。プラハの旧市庁舎の壁にある「天文時計」の写真を撮るなら、ここでは、かなり正時の前から行って場所の確保が必要です。
  また、人が多いので、添乗員さんとちゃんと待ち合わせ場所を確認しないと、迷子になりますよ。(誰のことかな?)

●ドレスデンの大空襲と日本:東京の大空襲
  ドイツのドレスデンでは、第2次世界大戦の終わりに、英米の空軍の焼夷弾の投下で、大きな火災がおき、非戦闘員である多くの女性や子供も無差別に犠牲になっています。
  この空襲による焼き討ち作戦は、ドイツだけでなく、同じく日本の上空でも度々行われていて、特に1945年の東京大空襲では10万人を超える市民が犠牲になっています。

  

  人が人を殺すという行為は許される物ではないことはみんなの常識です。
  それが、国と国との戦争なら、どうして許されることになりますか?
  特に、武器を持って闘っていない一般の人々を、無差別に殺戮した空襲作戦は、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺と同じ戦争での犯罪行為です。

  人類として、これらの行為を恥じて、二度としないようにしなければなりません。
  空襲については、ピカソの「ゲルニカ」もあります。

●映画 「ドレスデン 運命の日」
  第2次世界大戦のドレスデンの空襲の悲惨さを描いたドイツ映画として2006年製作の「ドレスデン 運命の日」があり、観ました。
  あらすじとしては、空爆にきて撃ち落とされたイギリスのパイロットとドレスデンの看護婦の恋物語となっていて、空爆がもたらした悲惨な状況が多くの市民の命を奪ったことを伝えているものの、どこか、ドイツ製作にしては、イギリスにも遠慮したような内容で物足りません。


●フェルメールの絵が、ドレスデンにある!
  最近、東京でもフェルメールの「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」の展覧会があり、その光と繊細さで話題を集めましたが、ドレスデンの「アルテ・マイスター絵画館」には、フェルメールの「窓辺で手紙を読む少女」と「ヤリ手婆」の2作品があるとは、知らなかった。
 

●ドレスデンの古い建物が黒ずんでいるわけ。
  ドレスデンの城や街の写真を見た方は、外壁が黒ずんでいるのは、空襲で焼けたすすがまだ残っているのかと思ったでしょうが、そうではありません。
  ドレスデンの建物は、砂鉄岩を使っているので、それが徐々に酸化して黒くなっています。

●ドレスデンと世界遺産の登録取り消し
  ドレスデンの旧市街とエルベ川の流域は、一度、2004年に世界遺産として登録されたのですが、エルベ川に新しい橋が作られ、これが景観を損ねるものと判断され、2009年に世界遺産から登録が取り消しになりました。

●集合時間に来ない人がいる。
  またまた、39人というツアーでのトラブルです。
  ドレスデンからのバスは本当は、18時に集合して発車する予定でしたが、18時になっても、また一人帰って来ません。そこで、私や添乗員さんがまた、捜索にでて、どうやら、発見し18時45分にドレスデンを無事に発車できました。
  この後、添乗員さんと話したのですが、どうしても見つから無い場合、集まったツアーの人々はバスで帰り、添乗員さんだけが、現地に残って不明者を探すそうです。もし発見できたら、列車で帰り、発見できなければ、現地の旅行会社に後は任せることになるのかも。 

  ヨーロッパでは、バスの運転手の勤務(乗務)時間が厳しく決められていて、いつまでも待っていられない事情もあるようです。

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