スリランカとインド   9日間の旅行記

期間: 2014年(平成26年)  4月13日(日) 〜 4月21日(月) 

第8日目: 2014年(平成26年)  4月20日(日)  

 インド の デリー観光、クトゥプ・ミナール観光、スリランカ経由で日本へ戻る

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インドのアグラ から デリー へ

◎ 本 日 の ス ケ ジ ュ ール
 場 所  概 要
起床 05:00 *アグラ市内のホテル:クラークス・シラーズ
朝食 06:00 New
アグラ市内のホテル:クラークス・シラーズのビュッフェ
ホテル 発 06:40 *陸路にてデリーへ。(約204km、約4時間)
デリー 着 
 (デリー観光 1時間30分)
10:15 ≪デリー市内観光≫
【世界遺産】レッド・フォート(赤い城)
10:40 【世界遺産】フーマユーン廟
11:50 *紅茶店(40分)に立ち寄り
クトゥブ・ミナール 着
 (クトゥブ・ミナール 観光
  50分)
12:40 *4月18日の予定に入っていたクトゥプ・ミナール へ
【世界遺産】クトゥブ・ミナール
昼食 13:40 New
中華料理
 その後、近くにある民芸品店へ立ち寄り
空港へ 14:50 *空港へ
デリー空港(インド) 着  15:30  
デリー空港 発  18:40 *スリランカ航空:UL−0196便

スリランカのコロンボ乗り継で日本へ戻る
 所要時間:約3時間
コロンボ空港(スリランカ) 着  21:45 *着後、空港内で時間を過ごし、航空機を乗り継ぎ、日本へ
コロンボ空港 発 23:30 *日本へ
 所要時間:8時間10分
機中泊   New

訪  問  地 詳    細
ホテル:クラークス・シラーズ     05:00 起床
 
 昨夜から泊まっているインドはアグラにあるホテル:クラークス・シラーズ での朝です。
*予定では、ホテルの出発は、7時30分でしたが、今日は、4月18日の予定に入っていた「クトゥプ・ミナール」の観光がずれてきたため、ホテル発を6時40分に早めました。

 そこで、起床も5時という早い時間になりました。

*今日の予定は、アグラからデリーに向かいデリーにある「レッド・フォート」、タージ・マハルの原型の「フーマユーン廟」を観て、巨大な石塔「「クトゥプ・ミナール」を観ます。

 後は、インドのデリー空港から、スリランカのコロンボ空港で乗り継いで、日本に帰ります。
ホテル:クラークス・シラーズ   *ホテル:クラークス・シラーズ

 朝5時という暗い時間に添乗員さんが部屋のドアをノックする音がする前にもう、起きてはいました。

 ホテル:クラークス・シラーズの中庭では、昨日あった選挙応援パーティの名残がありました。(インドは、選挙期間中です。)

 昨夜は、蚊もいなくて、部屋には冷房を入れなくても暑くはありませんでした。

 今朝は、雨も降っていないようです。

朝食
06:00 New
朝食

 インドのアグラのホテル:クラークス・シラーズ のビュッフェ形式の朝食です。

 まだ、6時では、ホテルの朝食の準備も充分でなく、インド料理は出ていませんでした。

 5,6品だけで、パンやソーセージ、ゆで卵など普通のホテルの朝食です。

デリー  へ
06:40 インドのアグラのホテル:クラークス・シラーズ 発

 アグラから北にあるインドの中心都市:デリーを目指します。

 アグラからデリーまでは、約204kmあり、約4時間のバスの旅です。

 日が昇ると少し暑くなりましたが、今夜は寒い飛行機にのることを考えて長袖を着ます。

 細かな道順は分かりませんが、ホテルから城壁の側を通り、タージ・マハールのあるヤムナー川を渡って、高速道路に入りました。
デリー  へ
07:18 *デリー へ

 このアグラからデリーへの高速道路は、今まで通ってきた、デリーとジャイプール、ジャイプールとアグラの高速道路とかなり違っていてきれいです。

 トイレも料金所を入るとすぐにあるなど、整っています。

 なお、トイレの使用では、チップは不要です。

デリー  へ
07:20 *トイレ休憩

 有料道路にある休憩所の男子トイレへの入口には、こんな図柄がありました。
 早朝のせいか、高速道路はすいています。

 道路脇には、ヒッチ・ハイクをする人がいました。
デリー  へ
07:50 *デリー へ

 高速道路の左右には、平野が続きます。

 丁度、小麦の刈り取りが終わったようです。

 こんなに広い土地ですが、どかには、人がいます。

 (多分、朝なので、畑でウンチをしているのかも)
 
 ワラを頭に載せて運ぶ人。また水牛が荷車を引いています。
 牛は神聖ですが、水牛は使っていいようです。
デリー  へ 08:26 *デリー へ

 また、次の料金所を過ぎレンガ工場がありました。

 料金所のゲートの警備員は、ライフル銃を持っていました。


 アグラから2時間ほど走って来ましたが、まったく、高速道路の左右は平らです。

 インドの国土の広さが分かります。
デリー  へ 09:00
*トイレ休憩

休憩所内では、飲物なども売っています。
デリー  へ 09:05 *トイレ休憩

 今日(4月20日)は、日曜日のせいか、サービス・エリアにもトラックなどが少ないようです。
デリー  へ 09:22 *デリー へ

 アグラを朝の6時40分に出て、約2時間半が過ぎました。

 かなり、デリーの街に近づいたようです。人家や自動車のサーキット場も見えて来ました。
デリー  へ 09:33 *デリー へ

高速道路も終わり、片側4車線というきれいに舗装された道路に入っています。

 この近辺では、大型の高層マンションが数多く建設中で、インドの発展が分かります。
デリー   10:11 *デリー着

 どうやら、デリーの市内に入ったようです。
◎デリー (Delhi) 観光の前に
デリー デリー (Delhi)

 デリーはインドの北部に位置し、ガンジス川の支流、ヤムナー川の左岸にあるインドの首都です。
 街は北のオールド・デリー地区と南にあるニュー・デリー地区と分けて呼ばれますが、首都機能は移っていないため、デリー都市圏として一緒に扱われることが多い。

 日本の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになっている。但し、インド政府公式サイトおよび日本の外務省のサイトにおいては、首都は「ニューデリー」と表記されている。

 デリーは古くから交通の要所として栄え、イスラムの主要都市として発展していました。
 1526年に始まるムガル帝国の王:バーブルは、もともとデリーの南にあるアグラを首都にしていましたが、息子のフーマユーンはデリーを首都にしました。しかし、ムガル帝国の滅亡と共にデリーは他の地方都市と同様な都市になりました。

 デリーがインドの首都となり発展をするのは、インドを植民地としていたイギリスが1911年にその統治の本拠地を南のコルカタからデリーに移したことによります。

 イギリスは、オールド・デリーの南にニュー・デリーとして新しく都市機能を整備した街造りをします。

 第二次世界大戦後の1947年インドも独立し、引き続きデリーが首都となっています。

 インドでは、ムンバイに次ぐ2番目の大都市です。
レッド・フォート
10:12 【世界遺産】レッド・フォート 赤い城 Red Fort Complex、 Lal Qila

 まず、【世界遺産】レッド・フォートの観光です。

 デリー市の北東端にあるデリー城はその城壁の赤さから現地では、ラール・キラーLal Qila(赤い城、英語ではレッド・フォート(赤い砦、))とも呼ばれ、ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが南のアグラからデリーに都を移し自らの居城とした城です。

 1639年から建築をはじめ、9年後の1648年に完成しました。
 城の城壁が赤いのは、建材として用いられた赤砂岩のせいです。
 
 2007年に文化遺産として登録されました。

 なお、インドで「赤い城 (レッド・フォート)」と言えば同じく帝国時代に築かれたアグラ城塞を指す場合もあります。

 
レッド・フォート 【世界遺産】レッド・フォート 赤い城 Red Fort Complex、 Lal Qila

*ラホール門 Lahore Gate) -

 西側にある正門。城内から見てラホール(現在のパキスタン)の方向にあるのでこう呼ばれる。

 *デリー門 (Delhi Gate) - 城内に勤める者が出入りした南側の門。
チャッタ・チョウク (Chhatta Chowk) - ラホール門とつながるアーケード。市場として使われた。

*ナッカル・カーナ (Naqqar Khana) - 時刻や王族の帰還を知らせる音楽が奏された中門。現在は戦争記念博物館となっている。

*ディワーニ・アーム (Diwan-i-Am) - 一般謁見殿。

*ディワーニ・カース (Diwan-i-Khas) - 貴賓謁見殿。

*モーティー・マスジド (Moti Masjid) - 「真珠モスク」。皇帝アウラングゼーブの建造した大理石のモスク。
レッド・フォート
10:15 【世界遺産】レッド・フォート 赤い城 Red Fort Complex、 Lal Qila

 時間がないせいか、レッド・フォート(赤い城)の観光は、裏側からの、外からだけの見物です。

 本当なら、
 西側にある、ホール門 Lahore Gate) から入って、いろいろと観るのでしょうが、城の東の裏側から、塀越しに一部を観て終わりです。

 レッド・フォート(赤い城)の裏側の道路は、車の通行量もすくない。
レッド・フォート 10:17 【世界遺産】レッド・フォート 赤い城 Red Fort Complex、 Lal Qila

 そうそうに、レッド・フォート(赤い城)を後にして、デリーの南にある、フーマユーン廟へ向かいます。
フーマユーン廟へ 10:20 *フーマユーン廟へ

 デリー市内も相変わらず汚い道端です。
フーマユーン廟へ 10:27 *フーマユーン廟へ

 デリーの東にあるヤムナー川に沿って、南へ向かっています。

 途中、1982年にアジア大会が開催された競技場がありました。

フーマユーン廟
10:40 *フーマユーン廟 着

【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb に着きました。


フーマユーン廟 Humayun's Tomb 観光の前に
【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 デリーのインド門から東南にいくとフーマユーン廟があります。

 ムガル帝国の第2代皇帝:フーマユーン は、1540年、ビハールの地をしたがえたパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍でのちにシェール・シャーと名乗るスール族のシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命し、流浪の生活をおくった。しかしイラン(ペルシア)のサファヴィー朝の支援を受け、シェール・シャーの死後の1555年にはインドのアグラとデリーの地を奪回し北インドの再征服に成功した。しかし、フーマユーンは、翌年の1556年に事故死してしまった。

 フーマユーン死後の1565年、ペルシア出身のフーマユーンの王妃で、信仰厚いムスリマであったハミーダ・バーヌー・ベーガム(ハージ・ベグム)は、亡き夫のためにデリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建設することを命じました。
 墓廟は、9年の歳月を経て完成されました。それが、現在のフーマユーン廟です。

 フーマユーン廟は、ムガル帝国の廟建築の原型を示すもので、アグラにあるタージ・マハルの建築様式にも影響を与えています。

 フーマユーン廟は、1993年に文化遺産として登録されました。
 
フーマユーン廟 10:48 【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 それでは、入場券を買って、フーマユーン廟の中に入って行きましょう。
フーマユーン廟 10:56 【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 入口からフーマユーン廟を見ると、こんな感じで、まさに、4月19日に訪れた、タージ・マハルの入口と同じ光景です。


 タージ・マハルの入口
フーマユーン廟 11:00 【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 フーマユーン廟の周りは、きれいに4分割された庭園があります。

 この四分庭園は、ペルシャの影響を受けて造られたそうです。
フーマユーン廟   【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 霊廟は上下の二層構造がらできています。
また、東西南北の四面は、それぞれは同じ立面(ファサード)をもっています。
フーマユーン廟
11:08 【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

  では、フーマユーン廟の中に入ってみましょう。
フーマユーン廟 11:20 【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 フーマユーン廟の中央にある玄室です。

 玄室には、フーマユーン王の墓として白大理石の石棺が置かれていますが、実際のフーマユーン王の遺体を納めた棺はこの直下に安置されています。

 このやり方は、タージ・マハルでも同じです。
(タージ・マハルでは、人が多くて、石棺に周りに近づくことも出来ませんでしたが、フーマユーン廟では人も少なくて、また楽に写真も撮れます。)
フーマユーン廟 11:25 【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 霊廟の中心の玄室を4つの正方形の墓室が対角上に取り巻くような形状に配置されています。

 
 天井もきれいな装飾がなされています。
フーマユーン廟
11:31 【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 フーマユーン廟には、フーマユーン王だけでなく、王妃ベーガム、王子ダーラー・シコー、そして、ムガル朝の重要な宮廷人たちも埋葬されています。

 全部で、150体の棺があるそうです。

フーマユーン廟
  【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 女性の棺での違い


 女性の棺で、肩がギザギザなのは、嫁いだ女性で、肩が四角いのは、未婚で亡くなった女性だそうです。
フーマユーン廟
11:33 【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb

 棺は、建物の外にもあります。


*靴を脱がなくていい!
 このフーマユーン廟を参拝するにあたっては、特に靴は脱がなくてもかまいません。
 
紅茶店へ
11:50
【世界遺産】フーマユーン廟 Humayun's Tomb 発

 約1時間ほどのフーマユーン廟観光を終えて、旧市街にある紅茶店に立ち寄ります。

 
紅茶店へ
11:54 *インド門

 強大なインド門が見えてきました。

 インド門の高さは、42mあり、第1次世界大戦で戦死したインド兵の慰霊碑です。
12:05 *紅茶屋

 
 あまり間口も広くない紅茶屋でした。

 私は、もう既に紅茶は、スリランカで大量に購入していますから、買いませんでした。
クトゥブ・ミナール へ
12:10 *クトゥブ・ミナール へ

 インドでの最後の観光になる、クトゥブ・ミナールに向かいます。

 クトゥブ・ミナール観光は、インドのデリーに到着した翌日の4月18日に予定されていたのですが、道路事情から、今日;4月20日に繰り下げられたものです。
クトゥブ・ミナール へ
12:27 *クトゥブ・ミナール へ

 全インド医科大学(All India Institute of Medical Sciences )の病院の側を通っています。
クトゥブ・ミナール
12:40
*クトゥブ・ミナール 着
 
 デリー市内を通って、30分程度で、クトゥブ・ミナールに到着です。
【世界遺産】クトゥブ・ミナール (Qutb Minar)観光の前に
【世界遺産】クトゥブ・ミナール (Qutb Minar)

 クトゥブ・ミナール(Qutb Minar)はデリーから、南へ10kmぐらいのところにあり、車で約30分ぐらいで着きます。

 クトゥブ・ミナールは、イスラム教徒であったクトゥブッディーン・アイバク王が1,200年頃に建てたといわれています。ミナールとは、イスラム教のモスクの尖塔の意味です。
 クトゥブ・ミナールの高さは、72.5mあり、以前は100m近くあったようですが、地震や落雷で崩れて修復をしています。 
 塔は5層からなり、最初の3層は赤砂岩、4層から上は大理石と砂岩で造られています。
 塔の内部には階段があり、以前は先端まで登ることができたのですが、内部の照明が切れて登っていた少女たちがパニックを起こし、死傷者がでたため、現在は立入り禁止となっていて入れません。
 塔の壁面にはコーランの文字が刻まれていて、 勝利の記念碑であるとともに祈りの時間を知らせる塔でもありました。

 クトゥブ・ミナールの境内にグプタ王朝のチャンドラプタ王が建てたと言う高さ7メートルの「鉄柱(Quwat-ul-Islam Masjid)」があります。1600年以前の物と言われ純度100%に近くて錆びたことが無いと言われています。
この鉄柱に後ろ向きに手を廻して、指と指 がつながれば、再びインドにこられると言い伝えられていますが、現在は柵が設置され鉄柱に近寄ることは出来きません。

クトゥブ・ミナール
12:55 【世界遺産】クトゥブ・ミナール (Qutb Minar)観光 −アラーイの塔 (Alai Minar)

  クトゥブ・ミナールの遺跡群は、1993年に世界遺産に登録されました。

 クトゥブ・ミナールのすぐ北側には、「アラーイの塔」呼ばれるクトゥブの塔よりも高い塔を建てようとした基部が残っています。
クトゥブ・ミナール    【世界遺産】クトゥブ・ミナール (Qutb Minar)観光

 5層の塔の入口です。

 なんとなく、傾いている気がします?

 塔の先端までは、72.5mあります。

 
クトゥブ・ミナール 13:04 【世界遺産】クトゥブ・ミナール (Qutb Minar)観光

 確かに72.5mとは高い塔です。    
クトゥブ・ミナール 13:08 【世界遺産】クトゥブ・ミナール (Qutb Minar)観光 ー鉄柱 (Quwat-ul-Islam Masjid Iron Plllar)

 クトゥブ・ミナールの境内にある、高さ7mの鉄柱です。

 4世紀頃に造られたとされますが、純度が100%に近くて、今も錆びていません。

 以前は、この鉄柱に背中をつけて、両指がつけば、またインドに戻ってこられるなどの、よくある話があったようですが、ご覧のように、今は鉄の柵が囲んでいますから、インドには戻ってこられません?

 でも、写真をよく見ると鉄柱と比べて、クトゥブ・ミナールは傾いている気がします。

 来ている人も多い。

 ご覧のように、クトゥブ・ミナールには、日陰がありません。
 暑いので、帽子は被った方がいいでしょう。
クトゥブ・ミナール 13:11 【世界遺産】クトゥブ・ミナール (Qutb Minar)観光

クトゥブ・ミナールの壁面には、きれいに、コーランの文字が彫られています。
クトゥブ・ミナール 13:19 【世界遺産】クトゥブ・ミナール (Qutb Minar)観光


 塔の先端にあった飾りが、降ろされて今は下に置かれています。
クトゥブ・ミナール 13:20 *クトゥブ・ミナール発

 クトゥブ・ミナールは余り広くありませんから、観光は、40分ほどで終わります。

 これで、インドの観光はすべて終わりましたので、時間の遅い昼食になります。
 クトゥブ・ミナールには、インドの子供たちも多く来ています。
 また、きれいなモデルも来ていました。

昼食
13:35 New
昼食

 クトゥブ・ミナールからバスで10分程度で、インドでの最後の食事となる、レストランに着きました。

 今日の昼食のメニューは、中華料理です。
昼食 13:58 New
昼食

 インドの旨くないカレー料理には、もうかなり飽きていましたので、中華料理はまあ、まあでした。
民芸品店へ 14:25 *民芸品店に立ち寄り

 予定に入っていれば、阪急交通社としては、絶対に落とすわけにはいかない、ショッピングです。

 昼食を済まして、レストランの近くにある民芸品店に歩いて行きます。

 道には観光用でもない象が人と荷物を載せてのんびりと歩いていました。
民芸品店 14:30 *民芸品店

 インドらしい手の込んだ高価な民芸品も売っていました。

 私は、何も買いませんが。
民芸品店
   
デリー空港へ
14:50 *デリー空港へ

 これで、スリランカとインドでのすべての観光スケジュールは終わりました。

 相変わらず混雑して、割り込みの車も多い道を、デリーの空港に向かい、日本に帰国です。
デリー空港へ
  *デリー空港へ

 強引に自動車も三輪車もうるさくクラクションを鳴らして割り込んできますから、当然に事故も起きるわけです。

 この事故車は、かなり強く当てられたようです。
デリー空港 15:30 *デリー空港 着

 
 デリー空港の入口から厳しくパスポートやEチケットの検査を受けてどうやら、空港内に入れます。

 
デリー空港 15:40 *デリー空港からスリランカのコロンボ空港経由で、日本へ帰国へ。

◎飛行機に乗れない!

 デリーの空港に着いたので、早速、添乗員さんが、搭乗予定のスリランカ航空のカウンターに行って、インドのデリーからスリランカ、また成田までの座席の確保をします。

 しかし、我々の分の座席がない!
 なんと、スリランカ航空でオバー・ブッキングをしたようで、予定の便にはもう私たち13人全員の座席がとれません。
 これは、一大事です。

 そこで、添乗員さんとスリランカ航空の担当者との交渉が始まります。

 待つこと、約40分。どうやら決着しました。
 我々、13人の内、10人はJALのデリーから成田への直行便に乗り、残りの3人は、予定の通りデリーからコロンボ経由で成田まで帰りますが、デリーからコロンボまでは、もうエコノミーの席がないので、ビジネス・クラスになりました。

◎私は、コロンボ経由の3人に入った。
 添乗員さんの判断で、グループで来ていない人、体調に問題のない人ということで、私ともう一人、そして添乗員さんがスリランカ経由で帰ることになりました。
デリーからコロンボ へ
17:50 *デリー空港から スリランカのコロンボ空港経由で、日本へ帰国へ。

◎時間がない!
 デリーからコロンボまでは、予定のエコノミー・クラスの座席がないので、ビジネス・クラスになりましたが、便は予定通りの、スリランカ航空 UL-0196便、出発時間は、18:40です。

 ごたごたして時間がかかり、もう搭乗時間はかなり前に始まっています。

 スリランカ航空のカウンターで荷物を預け、空港内を急いで、搭乗ゲートへ向かいます。

 出国でのチェックも厳しくて、時間がかかりました。

デリーからコロンボ へ
18:02 *デリー空港からスリランカのコロンボ空港経由で、日本へ帰国へ。

 どうやら、出発時間に間に合いました。

デリーからコロンボ へ 18:25 *デリー空港からスリランカのコロンボ空港 へ。

 インドのデリーからスリランカのコロンボまでは、約3時間の空の旅です。

 利用したジェット機は、AIRBUS A320 です。

 このジェット機は、4月17日(木)に、スリランカからデリーに来た時に乗ったのと同じ機種です。
デリーからコロンボ へ 18:40 *デリー空港からスリランカのコロンボ空港 へ。

 スリランカ航空 UL-0196便は予定通りの、18:40にインドのデリー空港を離陸して、スリランカのコロンボ空港へ向かいます。

◎ビジネス・シートです。

 予約してあったエコノミー・クラスの席がなかったので、エコノミー・クラスの料金で、海外旅行では初めてビジネス・シートに座りました。

 ビジネス・クラスは中央の通路を挟んで左右に2席づつあります。
 全部で20席ほどです。
 私の座席番号は、4Cで窓際ではありませんが、座席の前後が広くて楽に足は組めるし座席もクッションがいい。また、肘掛の幅も広い。

 確かに、エコノミー・クラスの座席とは各段に差別されています。
デリーからコロンボ へ  18:40 *デリー空港からスリランカのコロンボ空港 へ。

◎ビジネス・クラスです。
 エコノミー・クラスでは、飲み物のサービスは、飛行機が離陸し安定してから始まりますが、ビジネス・クラスでは、離陸前から、ジュースなどを飲めます。

 また、おしぼりもエコノミー・クラスでは紙でしたが、ビジネス・クラスではちゃんとしたタオル地です。

 さらに、今夜は機内食が出るのですが、これも、各人、事前にメニューを聞いて廻っています。

 機内のサービス担当に男女2名が配置されています。
デリーからコロンボ へ 19:30 *デリー空港からスリランカのコロンボ空港 へ。  機内食

◎ビジネス・クラスです。
  
 エコノミー・クラスのメニューでは、メイン・コースは、3種から選べますが、ビジネス・クラスでは、5種類も用意されています。
 私は、焼き魚を頼みました。量も多くて、味もいい!
 フルーツも新鮮でした。

 ビジネス・クラスとエコノミー・クラスのメニュー帳は大きさも違うし、紙の材質も違っています。

 食後のオシボリも出ます。
 スリランカ コロンボ
コロンボ空港 21:45 *スリランカのコロンボ空港 着

   インドのデリー空港から約3時間のフライトで、スリランカのコロンボ空港に到着しました。

 もう、空港の周りは暗闇です。

  このコロンボ空港で1時間程度待って、次は、23:30発のスリランカ航空UL-0454便で、日本は成田へ向かいます。

 コロンボから成田までは、約9時間かかる予定です。
コロンボ空港   *スリランカのコロンボ空港  -乗り継ぎ

 この深夜便の利用者は少ないようです。待合室にも人気がありません。
コロンボ空港 23:05 *搭乗開始

 スリランカ航空UL-0454便は、4月13日(日)に成田からコロンボへ来た時に利用したのと同じ、AIRBUS A−340 です。


コロンボから成田へ
23:17 *機内

 私の座席は、デリーで予約した際に、後方の窓際と指定していて、63H という番号です。
 (この便では、エコノミー席ですが。)

 座席の配置は、左右の窓際に2列、中央は4列です。
コロンボから成田へ
23:28 *離陸へ

 スリランカ航空UL-0454便は、機の前方の席は混んでいますが、後方の席はがら空きです。

 私の席の隣もいません。

◎23:35 離陸
 暗闇のコロンボ空港を、無事スリランカ航空UL-0454は離陸して、一気に成田まで飛んでいきます。
◎ 2014年 4月20日(日)は終わりです。
★第8日目(インドでの4日目)は、タージ・マハルがあるアグラからインドの首都:デリーに戻り、フーマユーン廟と72.5mのクトゥブ・ミナールを観て、デリーからスリランカのコロンボを経由して、日本に戻ります。

◎アグラからデリーへの高速道路は、管理が違う。
 
インドのデリーに来て、すぐに西南にあるジャイプールまでバスで移動したのですが、このデリーからジャイプールの道路事情は実に酷いものでした。
 
道端は汚く、他の車の割り込みはあるし、また渋滞は多く、クラクションの騒音もあるというものでした。

 しかし、アグラからデリーへの道路はきれいで、空いていて(日曜のせいもあるか?)快適でした。
 この、アグラからデリーへの道路は新しく管理が行き届いています。

◎レッド・フォート 赤い城は外からだけの観光とは、残念だ。
  デリーにある赤い城(レッド・フォート)の観光はもともと、入場しないことになていましたが、規模からいって、ここも入場観光をしたい場所です。

◎フーマユーン廟 は観光客が少ない。
  アグラにあるタージ・マハルの原型になったフーマユーン廟ですが、こちらは、人も極端に少なく空いています。
 確かに、タージ・マハルを観た後では、その大きさ、荘厳さなどで、フーマユーン廟は物足りません。

◎デリーからの飛行機に席がなかった!
 日本への帰国として、インドのデリーからスリランカのコロンボ経由でかえることになっていましたが、デリーからコロンボへの航空席がありませんでした。
 通常、Eチェケットが発行されていれば、日本のシステムならこんな事態は起こらない筈ですが、インドやスリランカでは、まだまだ予約システムが未完成のようです。
 インドやスリランカを旅する人は、予約の確認(リコンファーム)も必要のようです。

◎初めてビジネス・シートに座った。
 デリーからコロンボまでの飛行でエコノミーの座席が確保できなかったお詫びで、この区間は、代わりにビジネス・シートに座ることができました。
 確かに、エコノミーとビジネス・クラスでは、座席の幅や料理の内容、サービスなど極端に差があることが分かりました。
 そこで、できれば、コロンボから成田までもビジネス・シートが欲しかったと思います。

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2014年 8月11日